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真っ暗だった世界から、何かが羽ばたく音がして、俺はそこから一気に引き上げられた。
目を開けると、そこはあの独特なにおいのする病院という空間だった。
「おう、起きたか」
声がかけられる。体を動かそうとして――激痛が襲って、俺は首だけを動かす。師匠が手を振っていた。
「勝ったぞ。おめでとう」
「ありがとう……ございます」
俺はもごもごと口を動かす。
「いろんなところがボロボロだ。しばらくは安静だな」
「そう、ですか」
師匠が、またあの困った顔でこちらを――いや、俺の少し向こうを見た。俺はなんだろうと思って再び首を動かす。
田島が椅子に座って首を前に垂らし眠っていた。
「ついてくるって聞かなくてな。友達なんだろう?」
「とも、だち」
師匠に言われ田島を見る。
ともだち?
それは、どうだろう。
俺はこいつのことを、実際、ほとんど何も知らないのだ。どういう生活をしているのかとか、何が好きかとか、どうやって生きてきたのかとか、他のことも、何も知らない。
「つくる」
俺は呼びかける。
「起きろよ、おい」
師匠が背後で、何も言わず部屋を出て行ったのがわかった。扉が閉まるのとほぼ同時に、田島は目を覚ました。
「あ、……」寝ぼけた声を漏らしたあと、一気に覚醒する。
「あっ、あ!」そして俺を見て、その目が水分を帯びた。「よかった……起きた」
「お前がな」
俺はからかうように言う。
「あ、……俺、寝てたのか。ごめん」
彼はかしこまった。
「冗談だよ、ありがとう」
「俺は、……お礼を言われることなんて何も」
「試合を見に来てくれたし、曲だって作ってくれたんだろう?」
――お前のおかげで勝てたよ、と言おうと思って飲み込んだ。多分それは、こいつ の望んでいる言葉じゃない。
「ありがとう」
だから、俺はそれだけ言った。
「ううん、カッコよかった。見に行って良かった」
「こんなザマだけどな」
俺は肩をすくめる。
「なあ、つくる」
「? なに?」
「ちょっと、耳貸せ」
田島は何の疑問も持たず、ひょいっと顔をこちらに近づけてきた。
その唇に、唇を重ねる。田島が驚いて顔を離した。
その動作だけで、体を鋭い痛みが走り抜けた。
そして田島は、動揺で目を丸くしている。
俺は落ち着くのを待って言った。
「好きだ」
そう告げる。
「お前のことが、好きだ」
田島ははっとこちらを見つめ――俯いて視線を俺から逸らした。思っていないリアクションだった。俺の心臓が、いまさらどきどきとビートを刻み始めた。普段感じないほど急速なビートだ。田島がこのあとどんなことを言うのか、俺は急に自信がなくなってしまった。
「ありがとう、柊。でも、俺、その――」
それは、間違いなく否定だった。
予期しない返答。俺は自信を持っていた。田島は、俺の気持ちに応えてくれると。
だから聞いた。
「他に好きな人でもいるのか」
彼は首を振った。
「俺じゃ嫌か」
再び、首を振る。
「俺が、男だから――」
「違うんだ」
重ねるように、田島は言った。「俺は、柊が好きだ」
「じゃあ、どうして」
俺の声は、俺が思っているよりも悲痛な声になった。
田島は表情がわからないくらい深く顔を沈めて、その深い海の底にしばらく潜ったあとに、顔をあげた。
「怖いんだ」
「怖い?」
「幸せになるのが、怖い」
田島はそんな冗談みたいなことを、至極真剣な表情で言った。
「俺は幸せにはなれないって、ずっと思ってたんだ。だから……」
――こんなの、どうしていいのかわからない。
彼はそう言った。
「なんで、そんな」
まるでこれじゃ、俺が田島を問い詰めているみたいだ。
「なんでだろう。……ううん、ごめん」
田島はそう言って、はっきり俺を拒絶すると、笑った。
俺は多分その笑顔を一生忘れることはないと思う。
それは、見たことのない笑顔だった。見ているだけで胸が締め付けられるような、そんな笑顔。
俺は自分の体が動かないのを強く呪った。
いますぐに田島を抱きしめてやりたかった。そして言ってやるのだ。「お前は幸せになっていい。俺が幸せにしてやる」。だけど、俺のぼろぼろの体は少しも思い通りになってくれなくて、俺はなんとか右手を田島の方に少しだけ動かした。
「つくる」
そう呼びかける。
「そんなこと言うな」
指先が痛みに震える。それでも俺は手を伸ばす。
お前は幸せになっていい。俺が幸せにしてやりたい。俺にそれができなくても、お前がそれを求めてなくても、とにかく、お前は幸せになっていいんだ。それだけは伝えたかった。
「お願いだから、そんなこと言わないでくれ。お前は、お前は……」
俺の視界が急速に滲んで、気がつくと涙が溢れていた。
どうしてこんなに悲しいのだろう。
今泣いてはいけない、そうわかっていたのに、泣いてしまった。
田島はそんな俺の涙に気がつくと、――本当にごめん、と一言だけ言い残し立ち上がって病室を後にした。
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