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4:なぜ、好きなモノを語ろうとすると語彙が消えるのか

「っ!」  少しずつ姿を現してくるその人に、俺は思わず息を呑んだ。  長めの前髪が顔にかかり、耳には大きなヘッドホン。全身を黒で統一した、だぼだぼの服。ひょろりとした体型で、歩くたびに布が揺れて、まるで影がそのまま歩いているみたいだった。  そして、何より——。 「爺ちゃん、コーヒー」 「はいはい」 (かっ、かっこいい……!)  前に会った時よりも、少し顔つきがシャープになった気がする。  それに、あの時は座っていたから分からなかったが、身長もすごく高い。長い前髪の隙間から覗く涼しげな目元に、淡く引き結ばれた唇――整いすぎた顔立ちが、逆に現実味を失わせていた。  文豪にも「イケメン」と称された人物は数多くいるけれど、きっと余生先生も、その系譜に並ぶひとりだろう。 「っはぁ、っぁ……!」  やっと、やっとやっとやっと!会えた!  全身の血が逆流するかのような興奮。憧れ、尊敬、夢、全部がないまぜになって、もうこの瞬間の俺は、まともな思考なんて一片も残っていなかった。 「せ、先生……余生先生!あ、あ、あっ!あの!サインくださいっ!」 「は?」  階段を降りきったその瞬間、気づけば俺は駆け寄っていた。俺よりも頭ひとつ分は高い彼が、驚いたように目を見開いてこちらを見下ろしている。  けれど、もう止められない。  感情に勢いがついてしまった俺の口は、勝手に走り出していた。 「お、お、俺!余生先生にっ、また会いたくてッ!京明も、ダメかと思ったけど、先生のおかげで受かりました!あとあと!俺も余生先生に憧れて投稿始めたんです!まだ全然だけど、でも昨日一件だけ、コメントもらえて……それがすっごく嬉しくてっあっ、あの!どうやったら先生みたいな面白くてグッとくる話が書けますか!?あ、いやっ、ちがう、ちがう!こんなんじゃなくて……そう、そう!感想言いたかったんだ……あの、俺、先生の作品で好きなのいっぱいあって……その、一番好きなのが……!」  もう完全に暴走していた。もはや口じゃない。暴走列車の機関部だ。  熱と勢いだけで突き進むこの剥き出しの感情は、誰にも止められない。 「ダレハカのラスト!魔王が勇者の腹にエクスカリバーをブッ刺すシーンで、魔王が声出さずに泣いてるところ、俺、読んでて……なんかもう、わぁぁぁあああっ!てなって、スマホぶん投げそうになったっていうか、あ、でも壊れるから寸でのところで耐えたんですけど、でもその後心がぶっ壊れたっていうか!あれ、すごすぎて!呼吸止まったし!いや止められたし!」  苦しいくらい好きなものを、どうしても伝えたかった。  でも語彙力が足りない。理性も残ってない。頭の中は真っ白だった。 「あと、あと!今、連載中の『ナゼヤミ』も!あれ、伏線エグすぎて、最新話の最後の三行で涙出ちゃって!あんな優しい伏線回収ある!?えっ?えっ?ってなって、でも心臓は全部分かってたみたいにドクドクいってて……あああ〜〜!!ってなって、読み始めたの夜だったのに、気づいたら朝の五時だったんです!」  どうしてだろう。  本当は、もっと上手く伝えられるはずだったのに。先生を目の前にした瞬間、語彙力も理性も――全部、吹き飛んだ。 「っはぁ、っぁ……ぅ、やばっ!」  一瞬、鼻の奥にツンとした独特の匂いを感じた。鼻血が出そうな気配に、あわてて片手で鼻を覆った。  いや、冗談でも比喩でもなく、本気で鼻血が出そうなのだ。 「っぅ、ぐ」  俺は昔から興奮するとすぐ鼻血を出す体質で、今まさにその一歩手前。  鼻の奥にツンと血の匂いが流れ込む。このままじゃ、本当に余生先生の前で派手に醜態をさらしてしまう。 「あっ、そ、そうだ……!」  咄嗟に片手でリュックをゴソゴソと漁ると、A4サイズの分厚い封筒の束を取り出した。それは、余生先生へのファンレター……という名の、感想と愛が詰まりに詰まった〝小論文〟。 「お、おれ、先生にっ!手紙、書いてきて……!コレ!」  興奮のまま、その封筒を差し出す。  だが、余生先生は俺の前を、無言でそのまま通り過ぎた。そして、こちらを振り返ることなく、ぽつりと一言。 「……キモ」 「っへ?」  感情のこもらない声だった。  しかし、余生先生の言葉はそれだけでは終わらない。静けさの中に、怒涛のような罵声の嵐が押し寄せてきた。 「てか、なんなんだよその頭、暑苦しい。今すぐ爆ぜろよ。どこで俺の事知ったかしらないけどさ、あんまりウルサイと警察呼ぶからな」 「ぁ、えっと」 「だいたい……俺の作品が面白いとか言ってる時点で、アンタの作品絶対カスだわ」  ボソボソと小さく呟くようでありながら、羽虫でも叩き落とすかのように、感情のかけらもない声。  あまりの衝撃に俺が呆然としていると、彼は何事もなかったかのようにカウンター奥の席へと向かい、そのままノートPCを開いた。次の瞬間、カタカタと、冷たいキーボードの打鍵音が店内に響きはじめる。  残されたのは、ひんやりと凍りついた空気と、ただ目を瞬かせるしかできない俺だけだった。  手元に残されたファンレターを見つめたまま、俺は立ち尽くしていた。そして、少しだけ冷静さを取り戻して、パソコンに向かう先生の背中をそっと見やる。 「お、怒らせた……?」 「いや、怒ってないさ。あれがあの子の〝通常運転〟だよ」 「っへ、アレが!?」 「難しい子なんだよ。ごめんね」  マスターが、隣で苦笑いを浮かべながら言った。 「その手紙、私が預かろうか」 「え、いいんですか?」 「もちろんだよ。あの子の作品、ほんとに読んでくれたんだね。ありがとう」  その一言に救われた。  行き場を失っていたファンレター。いや、愛と熱量のすべてを詰め込んだ小論文は、ついにその〝宛先〟へと旅立っていった。まぁ、読んでもらえるかは甚だ疑問だが。 「君、小説を書いてるって言ったね」 「あ、えっと。入試終わって時間ができたから、書き始めました。投稿サイトにあげたんですけど、まだランキングとか全然で……」 「でも、感想をもらったんだろう?」 「はい。たった一人だけですけど」  俺が恥ずかしそうに俯きながら言うと、マスターはふわりと笑った。 「作品を読んで、感想をくれる人が一人でもいるって、それはすごいことだよ」 「……ぁ」  胸の奥に、そっと言葉が沁み込んでいく。  そう、確かにその通りだ。あんなたくさんの作品の中から、自分の作品を読んでくれる人が居る。それは奇跡みたいな事だから。 「で、いつからバイトに来られる?」 「明日から……いや、今からいけます!」  その瞬間、喫茶《ブルーマンデー》の空気が、ほんの少しやわらかくなった気がした。視界の端に映る余生先生の後ろ姿は、出会った頃から変わらず、小さく丸まっている。 「そうだ。君、名前は?」 「あっ、宮沢直樹です!どうぞ、よろしくお願いします!」  名乗っていなかったことを思い出し、勢いよく頭を下げた。するとその瞬間、穏やかだったマスターの声が、ほんの少しだけ焦ったように変わった。 「直樹くん、鼻血が出てるよ」 「っう、わ。すみません!」  慌てて手の甲で拭おうとする俺に、マスターが笑いながらタオルを差し出す。 「あぁ、ほらほら。そんな乱暴にしたら、スーツに血がつく」 「あ、ありがとうございます!」  タオルを受け取り、俺はもう一度、深く頭を下げた。  こうして、【喫茶 ブルーマンデー】での——余生先生との毎日が、はじまった。

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