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7:人は好きなモノについて語りたい生き物である
「大丈夫だよ。コウは誰にでもああなんだから」
「……ほんとに?」
「ほんと、ほんと」
マスターの優しい笑顔に救われたい気持ちは山々だったが、今回ばかりは素直に頷けなかった。
だって、「誰にでもあんな態度だ」と言われても、余生先生があの塩対応を誰かに向けているところを、俺は見たことがない。……まあ、俺以外に余生先生にウザ絡みしている人間が他にいない、というのが実際のところなのかもしれないけど。
「感想を、伝えたいだけなんだけどなぁ」
「うーん、あの子は自分の作品の感想を話されるのがあまり好きじゃないみたいだからねぇ」
「感想を言われるのが、好きじゃない……か」
確かに、それは薄々……というかしっかりめに感じていたところだ。でも、そんな事ってあるだろうか。
——めちゃくちゃ面白くて一気読みしました!早く続きが読みたいです!
今日貰った感想を思い出し、何とも言えない温かさが心の中を満たすのを感じた。あのコメントのお陰で、今日も帰ったらすぐに続きを書こうと思える。だからこそ、俺も少しでも余生先生の力になれたらって思っていたのだが——。
「やっぱり、ランキング一位の余生先生と、俺とじゃ感覚が違うのかなぁ」
「ふふ。単に照れてるだけかもしれないよ?」
照れてる?あの余生先生が?
マスターのどこかからかうような声音に、俺はさっきの余生先生の顔を思い出す。
——黙れ。
あの凍てつくような表情。冷え切った声。
その姿は、どこか花織先輩が「投稿サイト」に冷ややかな目を向けていたときと重なって見えた。
「……そうだ、直樹君。これ、あの子が中学生の頃によく読んでいた本なんだけど」
「っ!余生先生が好きな本!?どっ、どれですか!?」
黙り込んでしまったせいで、落ち込んでると思われたのだろう。不意にマスターから掛けられた声に、俺はその場から飛び上がった。
「これだよ」と、目の前に差し出されたのは、古びたハードカバーの一冊。
黒と赤を基調に、荒れた書体で書かれた、なんともバイオレンスな雰囲気の漂う洋書だった。
「これを、余生先生が……」
「あと、これも好きだったね。あとこっちも」
「あっ、あっ」
ひょいひょいと喫茶店の棚から本を迷いなく取り出していくマスターの後を、俺は慌てて追った。まさか、こんなに本があるのにマスターはどこに何があるか全部覚えているのだろうか……じゃなくて!
「あ、あの……これ、全部借りていっていいんですか?」
「もちろんだとも」
いつの間にか、俺の腕の中には十冊以上の本が抱えられていた。
俺もけっこう本を読んできた方だとは思っていたが、その中の一冊だって、俺の知っている本はなかった。
「おいおい、マスター。さすがにそりゃ多すぎるだろ」
「まったく、本の事となるとすぐコレだ。そんなにあったら持って帰るのも一苦労だろ」
「そうそう、直樹君も困ってるよ」
店に居た常連客のおじさん達の言葉に、マスターがハッとして「ごめんね、一冊ずつにしとこうか」と苦笑する。でも、俺は腕の中にある本の重みに対して、欠片も「重い」とは思わなかった。
「い、いやだ!」
「おや」
俺の目は既にマスターにではなく、最初に手渡された本の表紙に見入っていた。赤と黒の表紙。暴力的な書体。タイトルを見て、なんとなく胸の奥がざわついた。
「……これを、余生先生が」
体中が興奮で熱くなる。
だって、余生先生は殆ど自分の事を話してくれない。一応SNSはやってるけど、いつも新刊の告知とかそういうのばかりで、あまり自分の事は書いてくれないのだ。
だから、俺はずっと気になっていた。
(余生先生は、どんな作品が好きなんだろう。どんな本を読んできたんだろう。どんな物語が、今の余生先生の作品を形作るに至っているのだろう——)
本人から聞けない限り、その答えはどこにもないと思っていた。でも、まさかこんなところからアッサリと知ることが出来るとは。
「マスター、ありがとうございます。絶対に大切に読みます」
鼻の奥にツンと血の匂いを感じて、俺はすぐさま本をテーブルに置いた。余生先生の大切な本を汚すワケにはいかない。
「直樹君。今日はもう店の方はいいから、少し本を読んでいかないかい?」
「……はい」
普段なら絶対に「それはさすがに悪いですよ」と断るところだが、今日ばかりは甘い誘惑に抗えなかった。俺はいつも余生先生が座っている奥の席に、トス、と腰を下ろし、本を汚さないよう片手で口元と鼻を覆いながらページをめくった。
「っふぅ……」
今の俺は、いつ鼻血を出してもおかしくない。
そんな俺の姿を、マスターや常連客がどんな目で見ていたかは知らない。
(余生先生が読んだ本。余生先生の好きな本。余生先生を作った本。余生先生、余生先生、余生先生――)
その日、俺はバイトそっちのけで、ほぼ一日中ずっと本を読んでいた。一人暮らしのアパートに帰ってからも、夜になっても、借りた本を片時も手放せなかった。
「……なんだ、これ」
マスターから借りた「余生先生が好きな本」は、彼が書いている、明るくて希望に満ちた作品とは全く違った。もっと暗くて、もっと鋭くて、優しさなんてほんの一滴すらも残されていない。
そこに描かれていたのは、不穏と暴力。不快で、不潔で、生と性のリアリティに満ちた、救いのない世界。日常と人間の中に潜むグロテスクを、一片のオブラートも挟まず直球で描いたようなその作品は、まさに〝無常感〟の塊だった。
正直、後味が悪いなんて言葉じゃ足りない。なのに、俺は——。
「はぁっ、きもちぃ」
気持ちよく、絶望していた。
この後味の悪さ。嫌いじゃなかった。むしろ、妙に心地良い。
光と影。両方の作品を知った今、「余生」という作家の輪郭が、自分の中で少しだけ立体になった気がした。
「余生先生、こういうのが好きなんだ……」
余生先生は、ブルーマンデーに並ぶような古典や純文学より、ラノベの方が好きなのかと思っていた。けれど、それはまったくの勘違いだったらしい。
ここにきて、俺はようやくわかった気がした。
なぜ自分が、花織先輩なら余生先生の作品を気に入るだろうと思ったのか。
——投稿サイトなんてやめときなさい。バカになるわよ。
「余生先生って、月曜倶楽部っぽいんだ」
脳裏に浮かんだ花織先輩のツンとした姿と、余生先生の普段の姿が重なる。
そんなことを思いながらふと我に返ると、体操座りで本に没頭する俺のまわりに、血まみれのティッシュが散乱していた。
「あれ?」
食事も摂ることなく、鼻血を流しながら読書をし続けたせいか、少し頭がぼーっとする。
なんとなくカーテンの隙間に目をやると、空がほんのりと青く色づき始め、うっすらと朝の気配に切り替わっていた。
「……あー、またやっちゃった」
でも、なんだかんだいい夜だったと思う。——鼻血以外は。
◇◆◇
次の日も、相変わらず雨が降り続いていた。
けれど、そんなことは少しも気にならない。俺は居ても立ってもいられず、バイトのシフトの入っていない朝、《ブルーマンデー》へ向かった。
「お、おはようございます……!」
扉を勢いよく開けると、マスターが顔を上げ、いつものように、にこりと笑いかけてくれた。
「おや、直樹くん。今日はバイトの日じゃなかったよね」
「あの、昨日お借りした本……読んだので返しにきました」
「まさか、それ全部?一晩で?」
「はいっ!」
俺はリュックから本を取り出し、マスターのもとへ駆け寄った。
視界の端には、いつものようにキーボードを激しく打ち鳴らす余生先生の姿がある。でも今は、そっちに気を取られる余裕すらなかった。
「あ、あの、マスター!この作品、本当に凄かったです!あ、あの、だから……ちょっとだけ感想を……言ってもいいですか?」
すると、それまで目を丸くしていたマスターが優しげな笑みを浮かべた。
「もちろん」
「っっ!」
優しく頷いてもらった瞬間から、もう、止まらなかった。
昨日の夜から胸の中で渦巻いていた熱と感動を、俺は一気にまくし立てるように語り出した。
「まず、この三十四ページの〝声を上げた瞬間、全員が牙を剥いた〟って一文……あれ、ゾワッて背筋が冷えて、読んでるコッチまで思わず後ろ振り返っちゃって……あ!あと、五十一ページ!〝希望が燃えた。それは焚き火の火種と同じくらい、脆かった〟って……これ序盤の焚火のシーンと掛け合わせてある表現だと思うんですけど、まさかここに、コレを持ってくるなんて……もうっ、苦しくて、たまらなくて……!」
そうしてマスターに語り始めて、どれくらいの時間が経っただろう。あまりにも夢中だったせいで、呼吸すらおろそかになり、軽く酸欠気味だ。
新鮮な空気を求めるように、俺は一度大きく息を吸い込む。
そのときだった。
(あれ……?)
鋭い視線を感じて、俺は呼吸の合間にふと意識を引き戻す。
カウンターの奥。いつもの席。
(……余生先生、今こっち見てた?)
そこに座る余生先生が、確かにこっちを見ていた。しかし、目が合った瞬間に視線は逸らされてしまった。
「……」
一定のスピードでキーボードを叩く音が、鼓膜を反響するように響き渡る。
そう、確かに俺はこの日初めて——彼と目が合ったのだ。
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