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22:【ツク・ヨム】1位作家の憂鬱

 夜中の三時。  キーボードを打つ手を止めて、俺は小さく息を吐いた。——集中できない。  普段なら、この時間はゾーンに入ってて、時計なんて見る余裕もないはずだ。それなのに今日は、いったい何度、パソコンの隅に表示された時刻を確認しただろう。  ふすまが閉まったあの音が、まだ耳に残っている。 「……きっつ」  ふと顔を上げて、振り返る。  目を向けた先には、ピタリと閉じられたふすまが重々しく佇んでいた。 ——俺、今日はもう帰ります。  これも、何度目だ。どんなに集中しようとパソコンに向かっても、アイツ——宮沢直樹の去っていく背中が脳裏に過る。 「……もう、なんなんだよ」  両手で顔を覆いながら、震える声で呟いた。  俺は言ってしまったのだ。 〝余生〟という作家の作品を、心の底から「好きだ」と真っすぐに伝えてきた人間相手に。 ——好きなもん書いてるワケじゃないから。  好きなものなんて書いてない。作品に、信念も、愛情もない。  だから俺は、何を言われても傷つかない。そう言い放ってしまった。  その瞬間、直樹の顔から、すっとすべての感情が消えた。表情豊かで、言葉より先に顔に出るやつだったのに。  あのときだけは、何も、なかった。その姿を見て、俺は思った。  失望されたんだ、と。 「……でも、仕方ないだろ。本当の事なんだから」  感想欄を見せている間も、直樹が苦しげな表情を浮かべていたことは分かっていた。  なにせ、他人の感想に「汚された」と本気で言うような人間だ。あの行為が、どれほど不快にさせたかなんて、考えるまでもない。  でも、それでも。言わずにはいられなかった。 「俺は、読者の言葉になんて傷付いてなんかいないんだ」と。  今思い返しても、なぜあそこまでムキになったのか、自分でもよく分からない。だからこそ、こんなにも戸惑ってしまう。 「なんで、俺……アイツの事で、こんなに悩んでんだよ」  これまで、誰かのことでこんなにも感情をかき乱されたことなんてなかったのに。  他人は所詮、他人だ。自分には関係のない存在。  どう思われようが、関係ない。そう思ってきたし、そう信じていた。 「他人(あいつ)にどう思われようと、どうだっていい。……だって、一人の方が楽だし」  昔から、俺は〝そう〟だった。  小学校の頃から感情のコントロールや空気を読むのが下手で、よく「変なヤツ」と陰口を叩かれていた。  ただ集団の中にいる、それだけで、ひどく消耗してしまう。  それでも親は、何とかして俺を学校に行かせようとした。毎朝、泣きそうな背中を無理やり玄関へと押し出し、行きたくないと泣いて蹲る俺から目を逸らしながら。  そんな俺を助けてくれたのは、爺ちゃんだけだった。 ——コウ、爺ちゃんの店に来ないかい?  あのとき差し伸べられた手に、何度救われたか分からない。  幼い俺にとって、「ブルーマンデー」と、そこに並ぶたくさんの本だけが、世界で唯一の癒しだった。  毎日のように店で本を読みながら過ごすうちに、気づけば自然とノートに物語を書くようになっていた。  だから、いつから書き始めたかなんて、もう覚えていない。  でも、Web小説サイトに初めて投稿した時のことは、今でもはっきり覚えている。  十三歳の時、小学校の卒業祝いにって、爺ちゃんがパソコンを買ってくれた。  ……小学校なんて、まともに通ってなかったのに。  爺ちゃんは、本当に俺に甘かった。  中学にも行かず、ブルーマンデーに引きこもる俺を、親は爺ちゃんごと責めた。その苦しさから逃げるように、俺は創作の世界に没頭していった。  でも、どうだ。小説が書籍化され、売れ始めた頃からは、親もあまり文句を言わなくなった。  そのとき、俺は理解した。  人に文句を言わせないためには、「結果」を出すしかないんだって。  一人で、誰にも邪魔されずに生きるためには——〝これ(小説)〟しかなかった。  だから、仕方なくこれをやる。  死ぬまでの「余生」をどうにか生きていくために、手段なんて選んでいられない。そのためには、求められるものを書くしかないのだ。 ——コウ、本当にお前は私の若い頃に似てるよ。まったく、生きにくい性格をして。  優しく包み込むような爺ちゃんの声が、耳の奥にふわりと響く。その声を思い出すだけで、少しだけ心が落ち着いた。コーヒーとタバコの匂いもそうだ。  ブルーマンデーは、俺にとって“社会”から切り離されたシェルターであり、最後の砦だった。 「でも……じいちゃんだって、いつまで一緒に居てくれるか分からない」  思わず漏れた言葉に、自分の背筋がゾクリと凍るのを感じた。  そう、それはいつか必ずやってくる〝確定した未来〟だ。そのとき俺は、どうやって生きていけばいいんだろう。  そう思った、その瞬間だった。 ——お、おれ、先生にっ!手紙、書いてきて……!コレ!  頭に響いた声に導かれるように、俺は押入れの扉を開けた。  そこに置かれているA4サイズの分厚い茶封筒に、そっと指先を添える。  それは、直樹が初めてこの店にやって来た日に渡してきた、いわゆる〝ファンレター〟と呼ばれる類のものだった。 「……重いんだよ」  あぁ、重い。物理的にも精神的にも。  爺ちゃんの「直樹君からだよ」と手渡された時から、ずっと一貫して思い続けた気持ちだ。  最初は、読む気なんてこれっぽっちもなかった。  もらったことすら、しばらくは忘れていたくらいだ。  けれど、直樹と話す機会が少しずつ増えていくうちに、自然と思うようになった。 (あぁ、なんか……爺ちゃんと話してるみたいだ)  直樹と本の感想を語り合っていると、爺ちゃんと話しているときに似た、妙な安心感があった。  こちらの領分を絶対に侵してこない、距離感の整った心地よさ。なにより、言葉の端々がピタリと噛み合うその感覚は、誰とでも得られるものではない。  そんなふうに感じたとき、思い出したのだ。  押し入れの中に仕舞いっぱなしだった、あのファンレターの存在を。 『……コレ、なんて書いてあんだろ』  ほんの少しの、好奇心だった。  封筒から取り出した紙束に目を走らせた——けれど、たった一頁読んだだけで、手が止まった。  そう、〝これ以上は読んではいけない〟と、本能が強く告げてきたのだ。  それから、残りのページには一度も触れていない。  なのに、その茶封筒は、押入れの中でもいちばん手前、すぐに手が届く上段にずっと置いたままだった。 ——俺は、大好きですよ。 「っ!」  直樹が出て行く直前、あいつが残した最後の言葉が、耳の奥でこだました。妙な息苦しさが胸を締めつける。 「……大好きって、何だよ。作品のこと、だろ」  声に出してみても、胸のざわつきは収まらない。  むしろ、余計に息が詰まってしまう。俺は気持ちに蓋をするように押入れの扉をガタンと雑に閉めた。 「なに考えてんだ、俺は」  直樹のことだ。深い意味なんてあるはずがない。それをいちいち真に受けて、行間を読もうとするなんて考察厨の悪い癖だ。 ……そう言い聞かせながら、ひとつ大きく息を吐いた。

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