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23:【ツク・ヨム】1位作家の暴走
「続き、書かないと」
そう、頭を切り替えようとした矢先。ふと畳の一角が目に入った。
「あ」
そこには、直樹が初めて来た日に垂らした鼻血の跡が、今も薄く残っていた。拭いても消えないその染みに、胸の奥がわずかにざわつく。
「……クソ、またかよ」
視線を落とすと、ズボン越しに膨らんだそこが、いやらしく自己主張していて、情けなくて、ため息しか出なかった。
しかし、意識すれば、もう制御が効かない。胸の奥がざわつき、下腹に火が灯るように疼く。もう、小説を書くどころではなくなってしまった。
——っぁ、っふ、ン。よせい、先生。ごめんなさい。俺……鼻血、出やすくて。
「っはぁ、っは……きつっ」
相手が同性だとか異性だとか、そんなのはどうでもよかった。
こんなふうに、誰かを思って身体が反応するなんて、初めての経験なのだから。
頬を赤く染め、潤んだ目で恥ずかしそうに鼻血を垂らすアイツ。その姿を思い浮かべるだけで、俺の中の衝動はどうしようもなく膨れ上がった。
「……あぁ、舐めたい」
言ったが最後、妄想は加速していった。。
衝動のまま直樹を押し倒し、鼻先から垂れた血を舌で掬い、上唇、頬骨、血の通ったすべてを舐め回す。
「っは、ぁ……」
熱を含んだ呼吸が喉を震わせた。
たまらず、ズボン越しに自身を押さえる。硬さが手に伝わり、ただなぞるだけで快感が走った。
想像の中のアイツは戸惑いながらもうっとりとした表情で、俺の舌を受け入れてくれた。濡れたまつ毛、逃げ腰の脚。その間に膝をねじ込み、身動きを封じる。
——俺、余生先生になら、奪われても汚されても全然平気です!
「最初にそう言ったのはアンタだ。いいっていった、だったらッ」
ズボンの隙間に手を差し入れ、芯を探り出し、擦る。引きずる。壊すみたいに。
——っぁ、も……出ちゃ……。
「っ、はぁ……っ。俺も、イくっ……!」
限界がくる。そう思った時だった。
「よ、余生先生……?」
ふすま越しに、聞き慣れた声が聞こえた。
「っ……っ、なっ、なにっ!?」
全身に電撃が走ったように跳ね上がる。
一瞬、妄想のしすぎで幻聴かと思ったが、違う。ふすまの向こうに、確かに気配がある。俺は慌ててズボンの前を整えた。
(よりによって、なんでこのタイミングなんだよ——!)
いいところで邪魔された不発の苛立ちが、声にそのまま滲む。
「い、今何時だと思ってんだ……!」
「す、すみません!でも、どうしても余生先生と話したくて……。あの、入っても……いいですか?」
直樹の声は、わずかに震えていた。
そんなふうに言われて、追い返せるわけがない。いつからだろう。この声が俺を呼ぶのを、心のどこかで待つようになったのは。
「……ど、どうぞ」
上擦った声が、自分でも情けない。
ふすまがそろそろと開き、パンパンに膨らんだリュックを背負った直樹が現れた。
「なんだよ、その荷物」
「えと。ちょっと色々、資料が必要で……」
「資料?」
トトト、と隣に駆け寄ってくる直樹に、俺はテーブルの下の方へ必死で下半身を隠す。今は、この不自然な体勢で乗り切るしかなかった。
「余生先生は、好きなもの書いてますよ!信念あります!」
開口一番、それだった。
興奮気味にまくし立て、真っ赤な顔で、いつも以上に距離が近い。
「な、なんだよ急に!」
「あの、これ見てください!」
リュックから引っ張り出してきた分厚いノートには、びっしりと文字が書き込まれていた。続けざまにスマホを取り出し、ノートの隣に並べてくる。
(なんだ……一体、何が始まるんだ)
直樹の頬はいつも以上に赤く染まっている。
その姿に目を奪われていると、コイツはまるで俺の作品に感想をぶつけていたときのようなテンションで、勢いよく語り出した。
「俺、気づいたんです!ノキ先生って、余生先生の作品と構成が似てるところがあるって!あ、構成だけじゃなくて、文章のクセも描写もすごく似てるんです!」
「は?何言ってんだ、そんなわけ——」
「そんなわけ、あるんです!ちょっと待ってくださいね、ちゃんと根拠もあるので!」
勢いのまま、直樹はスマホに〝ノキ〟の作品ページを表示させた。
「ほら!」と画面を示しつつ、もう片方の手に分厚いノートを抱える姿は、まるで講義中の講師のようだった。
「見てください、これ……!余生先生の『ダレハカ』百五十一話のこの一節と、ノキ先生の『嫌われ勇者』七話目。ほぼ同じ構成が使われてるんです!」
「……は?」
そう言って、次々とノートをめくっていく。
走り書きのような文字。びっしりと張り付けられた付箋とアンダーラインの山。欄外にまで注釈が書き込まれており、まさに〝狂気の分析〟とも呼べるノートの中身だった。
「構成だけじゃなくて他にも、場面の切り替え方、地の文の間の取り方、視点のズラし方も……ほら!余生先生のクセを研究して、自分の表現に落とし込もうとしてるんですよ、ノキ先生は!」
ノートをチラリと見ただけで、喉が詰まる。
(何なんだ、コイツ……)
図解。引用。構造分析。語彙比較。
そんな、理性で整えられた分析の、その奥底に確かに燃えていた熱狂。そして、妄想。
俺自身すら意識していなかった癖を、コイツは精密に、的確に突いてくる。
「特に戦闘シーンなんか、顕著で!〝切る〟じゃなくて‷裂く〟、〝跳ぶ〟じゃなくて〝弾む〟って書くところとか。速さより重さを選ぶその感覚、ノキ先生もまんま踏襲してると思います!」
もともと、直樹と語り合う時間には、どこか官能に似た高揚があった。
ただ感性が合う、というレベルではない。言葉の奥底まで噛み合い、考えていることが一致しすぎていて、気味が悪いほど気持ちがいい。
——お前は、俺か。
そう、何度も思った。その理由が、今まさに目の前にある。
直樹が見せてくるのは、まるで「余生」の作品に取り憑かれたように書かれた、研究という名の執着の塊。
「こんなに余生先生の影響を一心に受けて、しかも誰に非難されても更新を止めないって。もう、俺……いや、その、ノキ先生のこれって、愛じゃないですか!?」
顔を火照らせ、潤んだ目で熱に浮かされたみたいに笑う。
その笑顔が、甘くて、艶っぽくて、喉が鳴りそうになる。
あぁ、そうだ。間違いない。
(確かに、俺は、アンタに愛されている)
偶然に好みが重なった、先天的な一致なんかじゃない。直樹は、自分の意志で選び、学び、染まり、そして、ここまで辿り着いた。
それは、後天的な執愛。意図して染め上げられた、愛の形。
俺がずっと目の前の相手に感じていた〝ピタリと噛み合う気持ちよさ〟は、ただの偶然じゃなかった。
(……染まったんだ。コイツは、俺に)
その答えに辿り着いた瞬間、机の下に隠していた猛りが再び熱を取り戻した。
こんなに愛されているんだ。妄想の通り、いっそこのまま押し倒して、全部、俺のものにしてしまえばいい。
「だから、余生先生は自分の好きなものを書いてますよ」
「……なんで、そうなるんだよ」
唐突な方向転換に、思わず、うわずった声が漏れた。押しつけがましさなんてないのに、その目がまっすぐすぎて、思わずたじろぎそうになる。
「だって、余生先生の作品をリスペクトしてるノキの作品を、余生先生が好きだと思えるなら……それってつまり、先生は、自分の好きなものをちゃんと書いてるってことじゃないですか?」
「っ!」
その瞬間、いつの間にか直樹の手が、俺の手に重ねられていた。
しっとりとした熱。手の甲から伝わるぬくもりが、俺の逆立った神経を優しく撫でてくる。
「だから、余生先生は、自分の好きなものをちゃんと書いてます。伝えようとして、真剣に書いてるから、みんなに届いてるんです。だから、感想に、傷ついてないフリなんてしなくていい。好きなものを貶されたら、傷ついていいし……俺にだけは、怒っても大丈夫です!」
最後の言葉は、とてもたどたどしかった。
泣きそうなくせに、どこまでも優しい顔で、俺を包み込んでくる。
(……ズルすぎだろ、マジで)
体が熱い。
でも、こんな顔をされたら、俺の汚い欲望なんかぶつけられるわけがない。
俺は視線を逸らし、小さく息を吐いた。
そのときだった。
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