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LESSONⅡ:第17話

 理人が残念そうな甘えた声を出したが、涼太は聞こえないかのように次のライブについての資料をデスクに広げた。 『ミナミ・ナギサwithR アリーナライブ進行表』と大きく打ち出された資料はナギサにとってライブの本番が近いことを感じさせた。  今回のライブは新設された施設でアリーナ級の広さだ。この公演を満員にできれば名が知れたアーティストの一員だと涼太も理人も気合が入っていた。  用意していたチケットは即日完売。当日のセッティングしだいで機材席を解放する可能性もある。ライブが成功して反響があればもっと大きな場所で歌えるチャンスが巡ってくるかもしれない。 「チケットのさばき具合から言って、アリーナ級の規模を満員にできたのは、いまのナギサの実力や人気を十分に表している。でも俺が目指しているのは音楽業界の頂点だ。そこを目指すアーティストになるとしたら、もっと磨かなければならないことがあることを分かっているな?」と理人は腕組みをして厳しい口調で告げた。  ふだんは何を考えているのか分からないくらいぼんやりとしている理人だが、プロデューサー目線としてナギサに鋭い言葉を浴びせる。  なぜ理人がナギサとボーイズラブのコンセプトを設定してユニットを組んでいるのかというと、恋愛の歌だというのにナギサの歌い方には恋心を表現したようなせつなさが宿っていないと判断したからだという。  ナギサ自身は理人がいう「せつなさ」が理解できなかった。  正直にいえば、ライブを間近を控えたいまもどうやって歌えばいいか分からずにいる。  絶対音感があるナギサは音程を正しく歌うことはできる。それに高音域の甘い声質は生まれ持ったラッキーな武器だ。とても耳なじみが良いと理人に言われたこともある。しかし足りないのは表現力で、誰かの心の内側をノックして呼び覚ますようなせつない歌い方ができていないらしい。  だから「恋仲」という設定を与えればナギサが心の内側を歌で表現できるのではと目論んだということだ。 「……うん。理人さんのことを好きだって思いながら歌うことだよね?」 「間違いではないけれど、ナギサは恋愛感情として俺のことを好きではないだろ?」  恋愛感情が分からないナギサにとって返事をすることができずに首を傾げる程度に留める。 「好きでもないのに気持ちを込めて歌うことは難しいはずだ」  理人は短く溜息をついた。眉をひそめて聞いていた涼太も理人と同じように腕を組む。 「誰かに恋していることがいちばん手っ取り早くて望ましいんだけど……」と涼太はさらに深い溜息をついた。 「まぁ、涼太の言う通りだが、それはそれで事務所的には悩みのタネになりかねないな」  もうすでに雅紀を「好きかもしれない」ナギサは冷や汗が背中を伝う。  でも彼らが望んでいる歌い手は「恋」をしている状態だというならば、雅紀と恋人になることで叶えることができるかもしれない。問題は「好き」という気持ちを理解していないことだろう。 「気持ちが込められた曲っていうのは、たとえ下手だとしても聴いている側の心を動かすことができるんだ。泣いたり、笑顔になったり、そして幸せだと思わせることができる。ビジュアルも声質も良くて、完璧な音程を出せるナギサに恋愛のせつなさを表現するテクニックが備わったら、歌を聴いただれしもが虜になるアーティストになれるはずなんだ」と理人は優しい口調で語ってくれた。  いままでの人生で期待をしてくれる人なんてナギサにはいるはずもなかった。  常に母親から疎ましがられていた存在だったので、ずっと自分などこの世に生きていたらいけない人間なんだと思っていた。  それなのに理人や涼太がそんなナギサを見つけてくれて、トップアーティストに育てたいと言ってくれている。  一音一音、丁寧に歌うことも大切だが、それは練習を丁寧に行えば多少は身に着けることができる。しかし現状のナギサが習得しなければならないのは「誰かを想う気持ち」だ。こればかりはどこの手引書にも書いていないから狼狽する。 「分かったよ、理人さん。ライブでうまく歌えるように頑張るから」  おそらくナギサの表情は困り果てていたのかもしれない。理人と涼太は「無理はするな」と心配そうな表情で言った。  残りのドーナツを口に運びながら、どうやったら誰かの心を動かす歌を歌えるようになるのかと思案した。  もしかしたら雅紀との契約を完璧に遂行すれば、歌えるようになるのだろうか。  しかも「仮恋人」ではなく「ほんとうの恋人」になれば叶えられるのか──。  ナギサは思わず溜息をついて天を仰いだ。

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