26 / 100
LESSONⅢ:第26話
「なぁ、ナギサ。宮國雅紀のマンションに通う仲なのか?」
涼太の低い声が事務所の床を這うように響く。
誰に雅紀との仲が知られたのかナギサは思い巡らせた。知ったとしてもわざわざ事務所に電話する理由が思い当たらない。そんなことをするのはナギサのことが嫌いで雅紀のことが好きな人物くらいだろう。
(ま、まさか……もしかして……)
該当する人物が思い浮かぶと顔を上げて流れる冷や汗をやり過ごす。
おそらく同じ合鍵を持っていた雅紀のマンションのエレベーターホールですれ違った男性だ。
雅紀の性急な口づけが蘇る。あの男性となにかしら深い関係があったから雅紀は様子が違っていたのかもしれない。
その人物はまだ雅紀のことが好きなのだろうか。好きになると、嫌がらせのようなことをしてしまうのかナギサは首を捻る。
――アンタさえいなければ、アタシは自由になれるのに。
母の口癖がナギサの鼓膜の奥で鳴り響く。この世にナギサが生まれてこなければ、母は自由に生きるこができたと思うと、離れたいまでも身体が震え、この世から自分を消し去りたくなってしまう。
邪魔だと思われることも、誰かに嫌われるのも怖い。
嫌われるのは自分自身が生きていることを否定されているように感じるのだ。
求められると生きていることを実感できる。歌うことで誰かの反応がもらえることがこの世とのパイプだった。そのパイプがいくつか増えた。
ひとつは理人と涼太との出会い。そしてふたつめは雅紀だ。
自分を必要としてくれる人がいるなら、幼少期から親に疎ましいと思われていた時間を取り戻すように尽くしたかった。
「……黙っていてごめんなさい」
「別に謝らなくていい。ナギサのプライベートのことだから……。でもな」
理人は腕を組んで、すこしのあいだ考え込んでから告げる。
「ただ、宮國雅紀はあんまりいい噂がない」
理人は同意を求めるように涼太の顔を見つめている。
「ナギサはライブも控えているし、いま電話かけてきた人物が週刊誌にネタを売るかもしれない。相手があまりにも大物すぎて、もし週刊誌の餌食になったら、うちみたいな小さい事務所では耐えられない」
涼太は目を伏せて小さい溜息をついた。そこまで考えていなかったナギサは急に背筋が凍ったように震えが起きる。
「まだ写真を撮られたわけではない。だけどこのままナギサをひとりで行動させると誰が襲ってくるか分からないな……。そうだな。うん、じゃあ、ひとまずウチに来いよ」
理人は立ち上がり、ナギサの横に腰を下ろして肩を抱き寄せた。ナギサは彼の恋人である涼太の顔色をおそるおそる窺った。涼太は目を伏せて眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
「いいよな、涼太?」
「……あぁ。ナギサのためだから、仕方ない」
銀縁の細いフレームで作られた眼鏡をかけ直す。それからブリッジを奥に押し込んで、咳払いをした。顔はさっきの電話を受けたときよりも赤く染まっている。
「ただし、夜は別の部屋で寝てくれよな」
はにかみながらも真面目な表情で涼太はナギサに伝えた。
ともだちにシェアしよう!

