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LESSONⅢ:第28話

 慣れない部屋のせいか、雅紀からのメッセージひとつで暗い穴底から這いあがれないくらいに身体が重だるくなってしまう。 「……このままじゃ、眠れないよ」  ナギサはスマホの画面を消して、よろめきながら部屋のドアを開けた。  するとコーヒーの香ばしい匂いが漂い、鼻腔から身体の強張りが解れてゆくのが分かった。 「涼太さん、コーヒー淹れてるの?」  キッチンに居たのは涼太だった。グレーのスウェットを着て、いつもかけているメガネは外されている。  注ぎ口が細いホーローのポットから湯が注がれて、こぽこぽとフィルターを通して香ばしいそうな茶色の液体がゆっくりと溜まってゆく。それを黙ったまま見つめている涼太の横顔は仕事のときとは違い、柔らかな顔つきだった。  百八十五センチあるモデル体型の理人には敵わないけれど、涼太も負けず劣らず容姿端麗だ。 「どうした? いつもの部屋じゃないから眠れないのか?」  子ども扱いされたような気がして、ナギサは首を横に振った。眠れないのは部屋のせいではなく雅紀のせいだとは言えない。 「じゃあナギサも一緒にコーヒーどうだ?」 「んー、ミルクとお砂糖があるなら」  たしか理人も涼太も事務所で飲むコーヒーはブラックを好んでいた気がした。  ナギサはミルクとお砂糖をたっぷり入れて甘くしないと飲めないので、それらが常備してあるか冷蔵庫に目を向ける。 「大丈夫だ、心配しなくても砂糖もミルクもある。ナギサは甘党だからブラック飲めないと思って用意しといたんだ」 「えー、ホントに? さすがボクのマネージャーさんだ。なんでも知ってるね」  いままで生きてきたなかで、自分のためになにかをしてくれる人が周りにいた試しがなかった。素直に涼太へ嬉しいと言えばいいのに、その言葉は口からうまく出てこない。  自分のために涼太がスーパーへ寄ってくれたことを申し訳なく思う気持ちさえ生じてしまう。  ふたつのマグカップへコーヒーを注ぎ終えた涼太は冷蔵庫からミルクを取り出して、ナギサ用のマグへ入れると水面は柔らかく色を変化させてカフェオレが出来上がった。 「はい、お待たせ」  仕事では見せたことのない綿あめのようなふんわりとした笑顔の涼太はナギサの前にマグを音を立てずに置いた。 「ありがと。あれ、理人さんには持っていかなくていいの?」 「あぁ、もう理人は寝ているから」 「早いね。疲れているのかな」  涼太は首を傾げて、「さぁ」と知らないようなそぶりを見せる。 「俺はもうちょっと仕事のメールを片付けたりするから、まだリビングにいるけれど、ナギサは寝なくて平気なのか? それ飲んだらもっと寝られなそうだけどな」 「んー、まだ眠気が起きないから……ちょっと一緒にいてもいい?」  いいよ、と涼太が言うので、リビングにあるソファーへ腰を下ろす。  薄く白い湯気が立ち上るコーヒーに口をつけると、たっぷり砂糖とミルクで中和したはずなのに深い苦味が口の中に広がった。きっとこれがインスタントとは違うコーヒーなのだろう。

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