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LESSONⅦ:第73話

「あまり大きな声で言えたことではないけれど、俺は性欲があっても女性と恋愛することができなかった。どんな女を抱いても、その先の関係を紡ぐ想像ができなくて。でも漣音との関係は違った。いま隣で寝ている漣音が、朝になったら部屋から消えているんじゃないか……とずっと見守っていたかった。まるで逃げ癖のある猫を飼ったような心地だった」  漣音との関係を知らないまま心に靄があるより、知った上で雅紀とのこれからを歩もうと自分に納得させて、覚悟を決める。漣音と身体を繋ぐ行為をした事実を目の当たりにすることを。 「漣音も俺に抱かれると精神が安定するのか、小さなことでケンカすることもなかった。歌もそこそこ歌えそうだったし、俺は組んでいたバンドを再編成して、漣音を碧海奏としてボーカリストとして迎えた。だけど当時、音楽をやっていくことで精いっぱいだった俺は恋愛自体に将来を見いだせなかった。恋人というカテゴリーに漣音を当てはめることができなかったんだ。バンドメンバーで同棲もしている上に、身体の関係だけあって恋人ではない、というポジションに彼は苛立っていたんだと思う」  雅紀が次に言葉を話すまで静かな波の音を聞いていた。無音は言葉を煽るけれど、波の音はいつまでも言葉を待つことを許してくれる。 「家族を失った漣音が求めていたのは、名前がついた関係だったんだと思う。俺はそれを彼に与えることができなかった」 「そのときの雅紀さんは、漣音のことは好きだったの?」 「そうだな。【偏愛音感】は漣音のことを好きだと示していた」  彼があまりにもはっきりと告げるので次に言うべき言葉が見つからない。 「いま思えばだけどな。漣音が歌うときに必ず頭のなかへ彼の気持ちが流れこんでいたから。【偏愛音感】だったと思うんだ。まぁ最近じゃ、前世からの繋がりがあった人間を探す行為だと言われているけれど。どちらにせよ、恋だと告げているんだよ、この能力は」  雅紀が最初に【偏愛音感】の能力があると気づかせたのは漣音だった。  その真実は胸のなかに絵の具をぶちまけてかき混ぜて真っ黒になった想いが悲鳴を上げるくらい辛い。その声を外に出してぶつけていいのか分からない。身体の中心から震えるくらい熱くなる。きっと涼太に尋ねたら、嫉妬だな、と笑うかもしれない。 「お互いに好きだと【偏愛音感】が示しているのに、俺がはっきりとさせなかったから、漣音はワザと俺と週刊誌に撮られようしたんだ。そうすれば公認の恋人になれると思ったのかもしれない。しかし結果は事務所的に同性同士の恋人関係を認めるわけにはいかず、バンド内も荒れたんだ。元から漣音を追加でボーカルに迎えることによく思わないメンバーもいたから。俺にとって大事なバンドが無くなるかもしれないと思ったら、俺自身も苛立って漣音に冷たくしてしまうようになって……」 「それで漣音はいなくなって、バンドも解散しちゃったの?」  雅紀は力なく頷く。漣音に対して負い目を感じながら、それからは生きてきたと言った。そのときの拠り所がナギサの動画配信だったというわけだ。

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