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第1章 番を失ったオメガ2

 だけど――生命維持装置と変わらない魂の番を失えば――身体は刻一刻と死へ近づいていく。  入社三年目に行った健康診断で心臓病になっていることが判明した。「手術を行わなければ命を落とす」と医師に言われた。  仕事を辞めたくなくても辞めざるを得ない身体になってしまったのだ。  直属の上司や先輩に送別会を行ってもらい、翌日から入院の準備を始めた。  一番仲がいい弟にだけ事情を話したら、先輩と暮らしているマンションにアポなしで駆け込んできた。  弟は、両親や兄がおれのことを心配していると話してくれたが、番を家族として認めてくれない家へ戻るつもりなど毛頭なかったのである。 「薫(にい)、番――それも魂の番であるアルファを失ったオメガが、病気や怪我で亡くなるケースは高いんだよ」 「時雨(しぐれ)……」 「あの人の出自や生まれを気にして番契約を結ぶことを反対したのは本当だけど、それは薫兄のことが大切だから、そういう態度をとったんだ」 「わかってる。わかっているんだ」  母親の実家は代々茶道の家元で上級オメガだ。男も、女も皆、上級アルファに嫁いでいる。  父親の実家は代々上級アルファで政治家や政府官僚を輩出している。  先輩のように身元不明で家族が誰かもわからない、教授職を目指している下級アルファに不審感を抱くのも当然だろう。  女でなくても上級オメガとして生まれ、蝶よ、花よと育てられてきた。世間知らずの箱入り娘のようなおれを、そのような男の番にすることを許すはずがない。  それでも、おれは先輩以外の人の番になる気はなかった。この世で、たったひとりしかいない運命の人だったからだ。 「父さんや母さん、兄さんたちや、おまえがおれを思って言ってくれたと頭では理解できている。でも心や身体がおいつかないんだ。先輩と番になることを反対されたとき、二十年以上築いてきた家族の絆というものが、ちっぽけでなんの意味もないものだと思ってしまった」  この世にたったひとりしかいない、じつの弟は何かを堪えるような表情を浮かべ、両ひざに置いた手で拳を作った。 「あの人が、魂の番だから? ぼくたちよりも、あの人のほうが大切なの……!?」  ベータである時雨は、わけがわからないと言いたげな顔をしていた。  おれだって同じだ。  二十数年大切に育ててくれた両親やかわいがってくれた兄たち、十八年かわいがっていた弟を今でも大切に思っている。  だけど、会って数年しか経っていない人でも家族と同じか、それ以上に先輩の存在は大きい。  そしてオメガの本能は「魂の番であるアルファを受け入れなかった彼らを絶対に許すな」と告げてくる。  「……そうかもしれないな。あの人は、おれの魂も同然の人だった。家族と過ごしてきた時間も忘れてしまうほどに大きな存在だったんだ。先輩がいたから、おれはこの世に生まれてきた。彼と出会い、言葉を交わし、愛し合って子孫を残すために今日まで生き長らてきたようなもの。彼が亡くなった今、こんな命、どうでもいい」  時雨は、どこか傷ついたような顔つきをして唇を噛みしめた。 「薫兄の気持ちは、よくわかりました。でも、たとえ、あの人のもとへ結果的には()ってしまうことになっても手術だけは受けてくださいね。ぼくたちは薫兄が、あの人を思って何もしないまま身体が弱っていく姿を見たくありません! 手術代や入院費は桐生(きりゅう)の家が持ちます。だから……」  立ち上がった彼は、まるで幼い子どもが泣く寸前の表情を浮かべ、唇をわななかせていた。 「ありがとう、感謝している。それから、こんな頼りない兄貴で、ごめんな」  そうして弟が帰るのをドアの前で見送った。  先輩の遺影を前に正座をして線香に火をつける。ふわと白檀の甘温かみのある香りが漂ってきた。あの人のフェロモンそっくりの香りを嗅いだとたんに涙が目に浮かんで視界が揺らいだ。  あの人のまとっていた香りや、好きだった食べ物に飲み物、色を覚えている。  部屋は彼がいなくなったときから変わらない状態のままだ。  だけどマンションの扉を開けて「ただいま」と言う声は聞けないし、「おかえり」と大好きな笑顔を見せてくれる人は、ここにはいない。  声も、笑顔も、体温や香りも恋しいのに、もう二度と感じられない。  ときが過ぎれば過ぎるほど、彼と過ごした日々が思い出となって、いつかは、すべてを忘れてしまう。  うなじを噛まれた内なるオメガが「今すぐ会いたい」と泣き叫ぶ。  張り裂けそうな胸を掻きむしり、嗚咽を漏らさないよう口元を押さえた。  いつしか身体が横に傾き、フローリングの床に倒れてしまった。息をするのも苦しくて指一本動かせない状態になる。  玄関のほうからチャイムの音がする。 「ごめんなさい、薫兄。うっかりしてカバンを忘れました」  時雨の名前を呼びたいのに口は開いても声が出ない。 「あれ? 鍵が掛かってない」  彼の声と足音が近づいてくる。 「薫兄、いくらなんでも不用心……薫兄!」  弟に抱き起こされ、何度も呼ばれる。  だが、その声に答えることはできなかった。  次第に視界が暗くなって、おれの意識は途絶えた。

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