6 / 102

第2章 変わるもの、変わらないもの1

 二度目の入院をする前、母から頻繁に連絡が来た。「まだ若いのだから、ほかの方と番になることもできるでしょう? 番ができれば身体だってよくなるのよ」と耳がタコになるくらい言われ、見合い写真を送られて(へき)(えき)した。  時雨にも「一度だけでいいから母さんのために、お見合いへ行ってきてよ」と懇願され、相手の方と会うことにしたのだ。  仲介人とおれ、相手による最初の顔合わせの席が設けられ、着物姿でホテルへ行った。  相手はアルファの頂点と称される上級アルファの男。家柄も、育ちも、収入も、容姿もいい。オーダーメイドのスーツに、きちとんと磨かれた革靴、老舗ブランドの腕時計をしていて性格もいい人だった(どう考えても引き手数多の人物だが、親が結婚相手の家柄に対してうるさく、仕事も忙しくて出会いがなかったそうだ)。  でも、おれの心を動かし、射止める人ではなかった。  見合い話を蹴ってからは、短期間でも収入を得られる公的機関の事務や受付の仕事を兄たちや時雨から紹介してもらい、収入を得ていた。そうはいっても正社員じゃないからボーナスも昇給もなし。  多くは先輩と思い出が詰まったマンションの維持費として消えた。  運の悪いことに、その事実を父に知られてしまったのだ。『おまえの身体が治るまで治療費はこちらで出す。おまえの兄弟が用意した仕事をこなすのもいい。母親や弟と連絡を取るのも一向に構わないが、あの忌々しい男を忘れ、ほかのアルファと番うまで家に戻ってくるな』と伝言メモが入っていた。  病院の正面玄関を出てバスの停留所へと向かう。  緩やかな上り坂を歩いても、もう息はあがらない。番の契約が解除されたら心臓の病気も完治し、喘息の発作もおさまったからだ。  バス停に設置された、青いプラスチックでできた固い椅子に腰掛け、皮でできた薄茶色のカバンの中からスマホを取り出す。 「もしもし、母さん」 『薫! どう、身体の調子は?』 「もう大丈夫。今日、無事に退院できたんだ。これからバスに乗って家へ帰るところ」  母は「よかった、本当によかったわ」と声をかすかに震わせながらスマホ越しに鼻をすすった。 「母さん、ありがとう。父さんを説得してくれて」 『本当は、あの人も、あなたのことを心配しているのよ。だけど、あなたが魂の番である方と番になると言うことを聞かなかったのが、おもしろくなかったみたいで……』 「仕方ないよ。うちと先輩じゃ住む世界が違うのに、おれが無理を押し通した。だから父さんは今でも怒ってる。でも、見合い話はもういいよ。お相手の方の大切な時間を無駄にしてしまう」 『どうして? 新しい番を迎えることは罪ではないわ。薫、今のあなたには、あなたを支えてくれる相手が必要なのよ』  母さんの言いたいことは理解できる。  でも、「この話はもう聞きたくない」とおれの中のオメガが子どものように、しくしく泣いているのだ。 「おれの唯一無二は、あの人だけだ。それに、まだ気持ちの整理がついてない」 『薫……もう五年も経ったのに、どうして?』  スマホを握りしめたまま空を仰ぐ。  真っ青な空を眺めながら、周りに人が少なくてよかったと心の中でつぶやいた。 「母さん、おれにとっては、たったの五年なんだよ。あの人の死んだ姿も見ないで病院のベッドで眠っているうちに葬儀は終わり、遺骨だけを受け取った。病気で苦しんでいる時間のほうが長かったから五年経ったって言われても実感がわかないんだ」 『おい、そこで何をしている? 電話の相手は誰だ!?』  語気を荒くした父の不機嫌な声がしたかと思うと、いきなり電話口に父が出た。 『薫、具合がよくなったそうだな』 「父さん、お久しぶりです」  顔を正面に戻し、五年ぶりに電話越しで父と会話をする。 『挨拶など不要だ』と冷たい口調で切り捨てられる。『治ったのなら、さっさと社会復帰しろ。これ以上は、うちでも出せん』 「もちろんです。職を見つけ、ひとりでやっていけるようにします」 『ならば話は終わりだ。おまえの新しい番が見つかったら早急に報告しろ』  ピコンと音が鳴り、通話が切れてしまった。ため息をついているところにタイミングよくバスがやってきた。  スマホをタッチし、出入口付近の席に着く。 「発車します」  運転手の男の人の声を合図に、ゆっくりバスが動き出す。  何はともあれ新しい就職先をさがすのが先決だ。  先輩と一緒に住んでいたマンションの月々の費用は、手に職をつけていないおれひとりでは払いきれる額じゃない。滞納して強制退去なんて、ごめんだ。  あそこには先輩と過ごした思い出がある。できるなら最後まで守りたい。  手に持っているスマホを使い、求人アプリを起動する。  今まで培ったスキルや知識を活かせそうな企業をさがす。  三社ほど見つけたところでスマホをカバンへ戻し、外の風景を眺める。街路樹の紅葉が赤く染まり始めている。  家へ帰ったらPCを起動して履歴書と職務経歴書の作成だ。書類選考には自信がある。問題は面接だと思いながらひんやりとしている窓に頭を預け、目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!