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第2章 変わるもの、変わらないもの2
あれから一ヵ月が過ぎた。結果は惨敗だ。
メールの文末には「桐生様の今後のご活躍をお祈り申し上げます」と決まり文句が書かれている。機械が書いているのか、人間が書いているの判別できない「お祈りメール」を目にするときは、いつもいやな悪寒が走る。学生時代は、このメールが来るたびに胃の縁がきりきりと痛くなったものだ。
朝から晩まで着なれないリクルートスーツを着て、面接がうまくいかなかったとしょぼくれて先輩に電話をした。研究や論文の執筆で忙しいはずなのに、夜通し話を聞いてもらった。
夏の暑さにやられて寝込んでしまったときは、院から当時住んでいたアパートまで、わざわざ飛んできてくれたのだ。あのとき先輩が作ってくれた野菜スープの味が恋しい。
胃薬を飲んで胃腸の具合はよくなっても、このまま正社員として就職できないかもしれないと不安になったら、涙が勝手にこぼれ始めた。
先輩は、そんなおれの身体を抱きしめ、泣き止むまで頭を撫 でてくれたのだ。
ちなみに当時のおれは、ひどい口べたで初対面の人間と話すのが苦手だった。
大学四年のときに公務員ならオメガでも安定して稼げるという話を聞き、受けたものの筆記はすべて通ったが集団面接で見事に落とされた。
上場企業の面接も受けたものの面接官が苦笑したり、ムッとした顔になったり、愛想笑いを浮かべて「これは駄目だな」と思っているのが、ひしひしと伝わってくる。そうして何日か、はたまた何週間後、メールボックスの中にお祈りメールが入っているのだ。「必ずご連絡を入れます」と言ってくれたのに音信不通となった企業も数知れず。
最終的に、おれは正規雇用で就職できた。大学の友だちが「ここはどうだ?」と勧めてくれた企業に入れたのだ。
デパートに入っている日本茶専門店の企業を受け、オメガながら発情期を薬で正確に管理して規則正しい生活を送ってきたこと、大学まで学業をまじめに行ってきた勤勉さや学業の成績がよいこと、PCを最低限扱える点を買ってもらった。
しかし決めては、礼儀作法を重んじる茶道の家元の子であり、幼い頃からお茶を習っていると面接官に伝えて話が盛り上がったことだ。
公務員試験の事務に合格した友だちに礼を言ったら、「企業のカラーや面接官との相性もある。何より、おまえの武器を使える場所に狙いを定めなきゃ、受かるものも受からない。とにかく、よかったな」と笑ってくれた。
「――こんなことで暗くなって、どうする」
マンションの家賃を送金したとき、貯金通帳に印字された数字が頭に浮かんだ。
給料をもらうまでは一日一食で仕事のない日は野菜ジュースや牛乳を飲むだけにしよう。お風呂はシャワーのみで電気も日が暮れたら消す。冬は布団にくるまって寒さをしのごう。
「先輩……」
2LDKの部屋にひとりでいると、ひとりぼっちになったのをいやでも実感させられる。
以前ひとり暮らしをしていたときは1Rのアパート。寝食を最低限できればよかったから生活必需品以外は、お茶の道具一式と着物に浴衣、最低限の衣類に大学の教科書とノートに筆記用具だけ。勉強も、娯楽も大学や東京の図書館に行って借りる本で間に合った。
先輩がおれの部屋を初めて訪れたとき、「薫は欲がないんだな」と笑ったけど欲がないんじゃない。
幼い頃から、たったひとりの運命の人と出会い、幸せな恋をして最期のときまで、そばにいられるように神仏へ願掛けしていたのだ。
その夢は最後まで、かなわなかった。
うなじの噛み跡は消えても、胸にぽっかり空いた穴はなくならない。
あの人と出会い、過ごした日々を忘れたくないと選んだ道なのに心臓の病を患っているときよりも、喘息の発作で息ができないときよりも苦しい。
急にさびしさを覚えたおれの中のオメガが魂の番の残り香に反応する。
においを辿 り、クローゼットの扉を横へスライドした。
先輩の着ていた服が五年前と変わらない状態で残っている。
本来であれば遺品整理を行うべきだ。
着古されたものはゴミに出し、まだ着られそうなものはリサイクルショップや古着屋に出す。ストック分として買ってあった未開封のままの下着や靴下、ワイシャツなどは先輩のいた養護施設の子どもたちに渡したほうが本人も喜ぶとわかっている。
でも心の整理がつかない。
先輩が愛用していたシャツを手にして、簡素な仏壇の上に飾られている写真立てへと目線をやる。手のひらサイズの長方形の箱の中で彼が笑っている。
五年経っておれのまなじりには笑いじわが刻まれるようになったのに、彼は一向に変わらない。
世界中をさがしても、もうどこにもいないのだ。二度と会えない。
ベッドへダイブしてシャツを抱き寄せても厚い胸板の感触はなく、温度感のない布地に顔を埋 めるだけ。
おれの右手は器用にスラックスのホックを外し、ファスナーを下ろしていた。足にまとわりつくスラックスを蹴るように脱ぎ、ボクサーパンツの中へ手を入れる。
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