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第4章 新生活4

「それなら、まったく問題ありませんね」と先生が鼻で笑う。  そうして、あれよあれよという間に先生が普段使っている白の乗用車の助手席に座らされた。  呆気にとられていると先生が運転席につき、シートベルトを装着する。彼はミラーの位置を確認しながらおれに話しかけきた。 「ほら、早くシートベルトをつけてください。じゃないと、いつまで経っても出発できません」 「冗談じゃない! おれは降りる」  出ようと思ってドアを開けようとしたら、先生にチャイルドロックを掛けられてしまい、出られなくなる。 「先生……あなた、子どもみたいな意地悪をするのは、やめてくれませんかね?」 「意地悪じゃありませんよ。用心のためです。最近は、いきなり車を叩いてきたりする人なんかもいますからね」  嘘をつくなと心の中で怒声をあげていれば、先生が車のスイッチボタンを押し、エンジンが掛かる。 「ここは都会と違ってバスは五分ごとに出ていません。ましてや通勤時間を過ぎれば、次のバスが来るのは二時間後だ」  腕時計を見ればバスが停留所に止まる時間を大幅に過ぎていた。  楠先生と駐車場で長話しをしたからだ。 「そんな長い時間、待つんですか? それとも家へ帰った朝霧さんに車で送迎してもらうつもりで?」  「それは――」  瞬は今日、三人家族で夕飯を食べに行くと言っていた。花音ちゃんを幼稚園まで迎えに行き、その後、店じまいをした志乃さんを車に乗せ、そば屋へ行くそうだ。  菩薩のようにやさしい志乃さんは「薫さんも一緒に行きませんか? 花音も喜びますよ」と、お世辞抜きで言ってくれた。  だが期間限定とはいえ、朝・晩と瞬の家に転がり込んで食事を出してもらい、昼も金を出しているものの弁当屋を営んでいる志乃さんに格安で弁当を作ってもらっている。  友だちでも親しき仲に礼儀あり。引っ越の準備や先輩の遺品整理も瞬や志乃さんの親戚や知人の手を借り、手伝ってもらったのだ。これ以上、世話になるわけにはいかない。ふたりのやさしさはありがたいし、花音ちゃんから好かれているのはうれしい。  だが家族団らんで過ごす三人の邪魔を毎日するわけにはいかない。  シートベルトを無言でして前を向く。 「ご厚意感謝します。お言葉に甘えさせていただきますね」  くくくと先生は喉を鳴らした。横目で見ればハンドルに両手を置き、肩を揺らしている。 「すごく頑固かと思ったら、すんなり人の言うことを聞くんですね。桐生さん」 「これ以上、瞬や志乃さんに迷惑を掛けられません。それに和菓子屋が閉まってしまいます。子どもたちとの約束を破るのはいやなんです」 「じゃあ、これで借りが、ひとつだ」  涙目になって笑っている楠先生をに苛立ちと恥ずかしさを覚える。 「そうですね。この借りは後で必ずお返しします。だから今は一秒でも早く車を出してください!」 「わかりました。発進しますよ」  慣れた手つきでギアをドライブに入れ、サイドブレーキを下ろす。  てっきり暴走車並の乱暴な運転をするかと思ったが、意外なことに慎重な様子で、ゆっくり車を動かした。  駐車場の出入り口のところでも事前にウインカーを出す。信号が黄色や赤でも進もうとする人間だっているのに先生は急ブレーキをかけず、すっと止まり、青になってもすぐに出たりせず左右をよく確認してから安全な状態で曲がった。  法定速度を守った速度で車を走らせる。 「音楽、お嫌いですか?」  突拍子もなく声を掛けられ、面食らいながらも「嫌いじゃありませんが流行りの曲は、よくわかりません。音楽に詳しくないので」と答える。 「ジャズピアノですから平気ですよ。そこのCDプレイヤーのボタンを押していただけませんか? ボリュームはそのままで」 「わかりました」  人に指示しないでほしいなと思いつつ、和菓子屋へ連れて行ってもらってる手前、断るわけにもいかないとボタンを押す。  ピアノの軽やかな音が流れ始めた。どこかで聞き覚えがあるものの名前も知らない曲だ。  もの悲しさと切なさを感じさせる静かで繊細な音色に心が癒やされる。 「ありがとうございます」と先生は言ったきり黙り込んでしまった。  交通法規をきっちり守りながら車を滑らかに操作する。  ペーパードライバーのおれなんかと違い、運転がうまい。それでいて自転車に乗った買い物帰りの女性や、仕事の帰り道であろう工場勤務の社員が道を渡りたそうにしていると、すぐに止まる。若葉マークや紅葉マークをつけている車や運転慣れしていない人や、なかなかタイミングが合わず線路を通過できないでいた大型車にも道を譲った。  ――車の運転の仕方には人の本当の性格が現れる。やさしい性格をしていると評判の人が事故を誘発するような乱暴な運転をしたり、交通法規を一切無視することがある。その一方でまるでヤのつく職業についていそうだと噂されている人がカートを押して歩くご老人のために車を止めたり、道で動けなくなった野生の獣を助けたりする――と、どこかで聞いたことがある。

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