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第4章 新生活5

 そんなもので果たして人の本質がわかるのだろうかと首をかしげる。  今だって、おれが「お客様」であるから丁寧な運転をしているだけだろう。事務員である瞬のツテで来た外部の人間、しかもオメガだ。丁重に扱わないと、後で瞬から校長に変な告げ口をされては困る、と思っているのかもしれない。  そもそも疲れて、ゆったりとした運転をしている可能性だってあると考えていれば「それで和菓子は、どんなものをご所望ですか?」と先生に尋ねられる。 「亥の子餅です。うり坊に似た、かわいい和菓子なんですけど、ここら辺の和菓子屋には置いてありますか?」 「ええ、ありますよ。去年も、一昨年も取り扱ったので大丈夫です。北条高校の茶道部に和菓子を届けてくれる行きつけの場所なら必ず置いてありますよ。今、そこに向かってます」 「そうですか。それなら、よかった」  ほっとして胸を撫で下ろす。  先生は正面を見ながら「イノシシが火を消すから『火の用心』という意味になって、炉の火で火事が起きないように祈るんですよね」と、かすかに口角を上げながら話す。 「そうですよ。平安時代からあるお菓子で歴史があります。『源氏物語』にも出てくるんですよね?」  幼い頃はまだ、お茶のよさがわからず、ただの苦い薬のようだと思って毛嫌いしていた。そんなときに、母が少しでも茶道に興味が持てるよう、和菓子の話をいろいろ聞かせてくれたのを思い出す。  すると楠先生は目を丸くして、こちらを(いち)(べつ)した。「あんたでも、そんなことを知っているのか」と驚いた顔でいる。 「よく知ってますね。第九帳『葵』に出てきます。光源氏の正妻・葵の上が、彼の恋人・六条の御息所の怨霊に祟り殺され、喪も開けていないうちに光源氏が紫の上と夫婦の仲になり、二日目に送ったお菓子です」 「確か――無病息災、子孫繁栄のご利益があるとか」 「その通りです。中国の、亥の月初めの亥の日、亥の刻に餅を食べると病気にかからないという風習が平安時代伝わり、以降は宮中行事のひとつになりました。イノシシが子どもをたくさん生むので、多産の象徴になったそうですよ」  そんな意味があったとは初耳だ、と先生の話に耳を傾ける。 「楠先生、物知りなんですね。明日の茶道部で、子どもたちにも、その話をしてみてはいかがですか」  すると先生は眉を寄せ、「しませんよ」と即答した。「受験の息抜きに来る三年生もいます。『源氏物語』の話なんかしたら受験の二文字が頭に浮かんで、お茶に集中できなくなってしまいますよ。そもそも学生で『源氏物語』の話を喜ぶのは、将来、文学部の文学科で紫式部について勉強したいと思ってる人間だけです。そんな子、北条高校ではまだ、ひとりも見たことがありません」  やはり古文の先生だから古典の話題になると(じょう)(ぜつ)になるなと感心する。同時に、この人は教育学部出身ではなく文学部の出で『源氏物語』について勉強し、教職課程の単位を取得したのかなと推測する。 「先生が教職についたのは三年前でしょう。まだ日が浅いから、そういう生徒と出会えないのでは?」とフォローするものの「では桐生さんは、現代語訳された『源氏物語』を読破したことがあるんですか?」と聞き返されてしまう。  日本人だけでなく、海外からやってくる人たちにも茶道を知ってもらう時代だと考え、私大の英文学科に進むことにした。だから大学受験の際に社会科目は興味のあった日本史を選択し、文系必須の英語と国語を勉強した。  英語は得意だ。日本語と構造が違う点がおもしろいし、文の型と単語の成り立ちさえ覚えれば、パズルやブロックを作る感覚で言葉ができる。だから何時間でも勉強できた。  その一方で国語は大の苦手だった。  漢文はそこまで苦じゃない。  だけど現代文はいつもテストや模試で点が取れなかった(大学受験を受けたときも解けなくて始終焦っていたのを今でも覚えている)。ましてや古文は大の苦手! 何がなんだかさっぱりだ。  苦手な理数科目だって学校のテストで六十点から七十点台を出していたのに、古文だけは赤点スレスレ。  春の模試で0点をとったときは第一志望の大学に行けなくなると絶望したものだ。  点数が上がらないからと塾の夏期講習に一ヶ月集中プランに参加したけど「なぜ千年以上前の人間は、こんな意味不明な言葉を使っているんだ!」と発狂しかけて終わった。受験直前まで高校の古文担当の教師に添削してもらい、解説の意味を教えてもらったりして、補欠合格で先輩や瞬のいた大学へ行けたのである。 「いえ、ないですけど」と率直な意見を口にする。  ほら、見ろといわんばかりに先生は鼻を鳴らし、自重気味な笑みを浮かべる。 「大学受験で国立や文系の私大を目指している子だって同じですよ。『源氏物語』は大昔の貴族の物語で当時のギャルゲー。光源氏とかいうイケメン主人公が、いろんなタイプの美女や美人、美少女や幼女を侍らかせるハーレムものだと大きく勘違いされてます。生徒に至っては『過去問で『源氏物語』が出ることが多いって聞いたので、先生、五百文字以内で内容を教えてくれません? できれば二百文字以内がいいんですけど』なんて言い出す子がいる始末です! 原文が読めないなら図書館にある現代語訳を読めばいいのに、タイパだ、コスパだ、時間がないと誰も読みません。日本最古の長編小説を五百文字で語れるだなんて、甘い考えですよ。俺なら三日三晩語っても時間が足りません」

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