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第5章 はな屋とシンデレラ1

 足元を見れば椿のような色をしたマットの上に灰色の犬――「にゃあ」――ではなく巨大な猫がいた。  おれも先生と同じように膝を折って、大きなあくびをしている小さなライオンをまじまじと見る。 「先生、この子は?」 「『はな屋』の看板猫のシンデレラです。メインクーンって種類で小型犬サイズの大きな猫なんですよ」 「触っても噛んだりしないか?」  つい猫に問いかける形で本音が漏れる。  横にいた先生は、おれが話しかけたのだと勘違いをし、「噛んだりしませんよ」と肩をすくませる。「子どもや赤ちゃんも来る店なんで人になれています。よく子どもの遊び相手になったりしてますよ。触ってみたら、どうです」 「勝手に触ってもいいんですか!? お店の人が怒るんじゃ……?」 「ここのおじさんと、おばさんは怒ったりしませんよ。お客も、みんな勝手に触っています。というか、そろそろ――」  膝頭にあてていた手にふわふわしたものが触れ、目の前にほこりとり用のハンディモップのようなものが、にょきっと現れた。目線をそのまま下へやれば、立ち上がったシンデレラがのどをゴロゴロ鳴らしながら、おれのひざやズボンに頭や身体をすり寄せていたのだ。  猫など動画の世界の生き物で一度も触ったことのなかったおれは、ビックリして固まってしまう。  すると血相を変えた楠先生が「桐生さん、まさか猫アレルギーじゃありませんよね!?」と大きな声で聞いてくる。 「いえ、違います」  ゆるくかぶりを振ってシンデレラの湿った鼻先に手を近づけてみる。超音波式加湿器の蒸気のように冷たい。手を引こうとしたら、シンデレラの丸い頭で頭突きを食らう。  このまま撫でていいのだろうかと、おそるおそるあごの下を撫でてみる。温かくてやわらかい絨毯みたいだ。触り心地がいい。 「猫に触れたのが初めてのことなので感動しています……」 「初めて!?」と先生はメガネの向こうで目を丸くした。「ペットショップに行ってお試しで触ったり、近所の猫を抱っこさせてもらったり、野良猫や外猫と戯れたりしなかったんですか?」  まるで宇宙人や珍獣と鉢合わせたような顔をしている。  ムッとしながら「そうですけど」と返事をしてシンデレラの頭を、そっと撫でてみた。 「じゃあ、これが人生初?」 「千葉の父も、兄たちも犬派ですし、母と弟は動物嫌いです。父はブリーダーの方から犬を譲渡してもらっていたので、ペットショップに行ったことは一度もありません。友だちは大学で瞬と出会うまでmできたことがないです。それに『外にいる猫は病気を持っているかもしれない』と母に触るのを禁止されていましたから」  よく動画やテレビでは猫を飼っている人たちが抱っこしているけど、シンデレラは大きいし、このお店の子だ。さすがにそれはできないなと残念に思い、立ち上がる。  黒のスラックスの裾に長い毛がびっしりついていた。  小・中・高で、たまに毛玉だらけのコートや黒い服に白い毛がついている人間を見かけたのは、こういう理由だったのかと長年の謎が解ける。  家に帰ったらブラシか粘着シートのコロコロを掛けて、取らなくてはなと思っていれば、先生がポカンと口を開けて、おれを見上げていた。 「『大学まで友だちがいたこともないなんて、さびしいやつ』って思いますか? それとも、おれの育ちに何か文句でも?」 「いえ、そんなことは、」  足元にいたシンデレラは三角の耳を動かし、ととと、と軽やかに店の奥に向かって走っていった。 「いらっしゃいませ……あらー、これは楠先生じゃありませんか! どうかしましたか?」  白い三角巾に白い割烹着姿のメガネを掛けた老女が、朗らかな笑顔を浮かべて、こちらへやってくる。  その後をシンデレラがついていき、何かニャーニャーと鳴いていた。 「こんばんは、おばさん。明日の亥の子餅の件でやってきました」 「あれ? 明日はいつも通りのお時間にお届けすればいいんですよね。何かありました? その方は……」  老女が頬に手をあて、戸惑いの声をあげる。 「いえ、例年通り、炉開きのための亥の子餅で差し支えありません。今日は買い物ついでに新しく茶道部の顧問となった桐生さんをご紹介しに伺ったんです」  おれは先生のほうへ勢いよく顔を向けた。  いや閉店間際に買いに来るとか、ご迷惑がかかるだろ? というかアポイントを取ってなかったのか!? などと叫べるわけもなく……気持ちを切り替え、目の前のご婦人にお辞儀をし、挨拶をする。 「桐生と申します。東京から栃木へやってきて、このたび私立北条大学付属高校の茶道部講師をさせていただくことになりました。講師をやるのは今回が初めてとなりますが、今後こちらへ伺うこともあるかと思い、ご挨拶に伺った次第です。本日はわたしの不手際により、ご一報入れずに伺う形となってしまい――」 「あらまあ、べっぴんさんねえ!」  女性は目をキラキラ輝かせ、頬を紅潮させた。 「はるばる東京から、こんな老人の多いところへお若い人が来てくれるなんて、ありがたいわ。あなた、年はいくつ? 大学生? アルバイトで茶道の講師をしながら大学に通っているの? こんなきれいなんだもの彼氏だっているわよね!? もしかして……先生のいい人?」

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