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第6章 第一印象=反りが合わない人3
楠先生の手が頬に触れ、顔がじょじょに近づいてくる。「やめろ」と言いかけたところで――「顔は怪我していませんね」
「うんっ?」
眉を寄せ、先生の瞳を凝視していたおれの顔は、さぞ間抜けヅラをしていたことだろう。
真剣な顔つきをした先生は、顔を遠ざけると直立し、あごに手をやる。
「女性といえど相手は上級アルファですよ。おまけに爪の補強剤を塗って長い爪をしていましたから顔に怪我なんてできたら大変です。肩は大丈夫ですか? 殴られたりとか」
「あの先生?」
なんともいえない気分になりながら話しかけると先生は、さも平然とした様子で「はい、なんです?」と聞き返してきた。
「これは一体……何をされているんです?」
「決まってるじゃないですか。桐生さんが腕以外に怪我をしているところがないか確認しているところですよ」
その言葉を聞いたら全身から力が抜けた。やってられないというか毒気を抜かれたというか……とにかく、どっと疲れを感じてヘロヘロな状態になってしまう。
「治療するって言ったでしょう」
「……ええ、ああ、はい。そうでしたね」
適当に返事をしている間に先生は記録簿を記入し、勝手に茶色のビンの蓋を開け、アルコールがひたひたになっている丸い脱脂綿をピンセットで取り出す。
「保健室は具合が悪い人が休んだり、軽い怪我をした人を治療するところです。それ以外の用途はありませんよ。何を勘違いしてるんですか」
出会ってから、そんなに時間は経っていないものの散々な言葉を掛けられてきたが、その中でも一番堪 える言葉だ。
相手がアルファだからと自意識過剰に反応し、先生と自分が保健室のベッドで淫らな行為を行うのではないかと焦った自分が恥ずかしい。
返す言葉もなくなり黙っていれば、「腕を出してください」と言われる。
おとなしく怪我をしているところを見せれば、すぐに消毒液の染み込んだ球綿が肌に触れた。ひんやりとしていて、じんわりと傷にしみていくのを我慢する。
血がうっすらついた脱脂綿をゴミ箱に捨てた先生は、ばんそうこうを取り出し、傷口につけてくれた。
いやなやつではあっても、こうやって傷を気にしてくれて対処までしてもらったのだからと口を開き、素直に礼を言おうとした。が、「いい加減、過去に執着したり、亡くなった男に執着するのをやめたら、どうですか?」
「……はい?」
壊れたロボットのように首を動かし、洗面台で手を洗っている先生の後ろ姿を穴が開くほど、目を凝らして見る。
「愛した人を死ぬまで忘れないという選択肢もありますが、あなたのそれは、ただ思い出に縋っているだけだと思います」
「なぜ、そんなことを言うんです? 決めつけは、やめてもらえませんか」
腹立たしい気持ちでいると先生が蛇口を閉める音が響く。彼はジャージのポケットから、きっちりアイロンがかけられている真四角の正方形みたいになっている青いハンカチを取り出し、手に一滴の雫も残っていないよう丁寧に拭いた。
「愛した人を今でも大切に思っているなら愛した人の一番言いそうなことや本当に望むことを行動で示すのではないでしょうか? あなたの番だったアルファは桐生さんに『生活がどんなに苦しくても、何があっても絶対にマンションを手放すな』と無茶を言う方だったんです?」
「っ……!? あの人が、そんなことを言うはずがないだろう!」
あっと思い、口元を手で押さえるが、ときすでに遅し。
図星を突かれて頭に血が上り、つい大きな声を出してしまった。
同時に想像してしまったのだ。もしも生活が困窮しているのにマンションを手放さないと意固地になっていることを、先輩が知ったら、今のおれをどう思ったのだろう――と。
生きていくために身も、心もやつし疲れながら得た多くの金をあの建物につぎ込み、自分は最低限の暮らしを慎ましくする。当初は、それが唯一の正しい方法だと強く信じていた。
だけど今は……本当にそんなことで先輩との大切な思い出を守ることになるのか、わからない。むしろ彼が望まないんじゃないか、とすでに思い始めている。
おれの固い意志は、たった一時間程度しか話していない初対面の男によって揺らいでしまったのだ。
「後、これは俺の一意見ですので聞き流してくださって構いません」と楠先生は保健室の出入り口へと足を進める。「好きだった人をこの世から亡くして忘れてしまうなんて薄情者のすることだと思います」
思いきりガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃を受け、息を詰めた。
彼は、こちらを一瞥し、侮蔑するような眼差しを向けてきた。
「自分にとって大切な人のことなら一生、忘れないはずです。……どこにいても、何をしていても、その人が生きていたときの記憶をありありと思い出せます。声や仕草も、匂いや温度だって昨日会ったんじゃないかってくらい現実身のあるものとして感じられるはずですよ。だから、あなたはその人を本当に愛してたわけじゃない。マンションっていうものがなくちゃ忘れてしまう。その程度の安っぽい気持ちだったんですよ」
扉がピシャッと閉まり、足音が次第に遠のいていく。
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