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第7章 身体の記憶1
しばらくの間は、その場で呆然としていた。
だが時間が経つにつれ、先生の言葉に沸々と怒りを覚え、白いシーツを思いきり握りしめた。
「……で、元気がないってわけだな」
「ああ、そうだ」
お世話になるからと東京で買ったお菓子を駅のロッカーから取り出し、ため息をつく。
思い出すだけで腸が煮えくり返る。
車を出してくれた瞬の隣を歩きながら階段を降りていった。
「まったく、なんなんだ、あの男は……礼儀がなってないわ、ろくでもない言葉は口にするわ。ろくな人間じゃない」
「そんなこと言うなよ。先生だって悪気があったわけじゃないって」と瞬が困り顔をする。彼の顔を横目で凝視してから視線を前に戻す。
「なぜ、そこまで庇い立てする? オメガの生徒を守る教師だからか」
「それもある。オレだって最初は、いけ好かないなとか、何考えてるんだ? って思ったけど、あの人の人となりを知ったら放っておけなくなったんだよ」
瞬が人に対して、やさしいのはわかっている。そうでなければ、おれのような男の友だちになり、先輩との仲をとり持つような七 めんどうくさいことを率先してするはずがない。
「それで家にまで呼ぶ仲になったのか」
ジト目で問えば瞬は唇を尖らせた。
「そうだよ。志乃に対しても気が利くし、花音のこともかわいがってくれてるんだ」
「女、子どもやベータにはやさしいのか」
「そうじゃない。おまえがオメガだから力 が入ったんだよ」
「お生憎様。おれはアルファに守られる、か弱いオメガではない」
車のキーを遠隔操作してもらい、助手席に乗り込んだ。
「ったく先生ったら、しょうがねえな」と瞬は額に指をあて首を左右に振った。
「愚痴や御託はいいから早く車を出してくれ」
「へいへい、わかりましたよ」
車が走ること三十分後、瞬と志乃さん、花音ちゃんの住む一戸建て住宅に着いた。
慣れた様子で瞬はガレージに車を駐車し、エンジンが切れたのを見計らって外へ出る。
「うまいものだな。一発でバック駐車か」
「何年もやってれば身体が覚えるよ。おまえだって茶道でお茶を振る舞うとき、そうだろう」
「……そうだな」
小学生の中学年から茶道を習いたいと母に言って本格的に稽古をつけてもらった。中学は帰宅部で学校が終わるとすぐに母の教え子たちとともに習う。高校の部活動がないときも指導してもらった。資格を着実に取得し、大学でも欠かさずやってきた。日本茶専門店でお客様にふるまうだけでなく、帰宅後は自分にもお茶を入れて精神統一してきたのだ。
だけど先輩が亡くなり、病気をするようになってからは、まったくやっていない。
今日、子どもたちがお茶を振る舞う動作を目にして、週二日の部活動でもしっかり学んでいることがよくわかった。
顧問の方も、もうすぐ臨月だというのに子どもたちを温かくサポートしていたのだ。
おれだって先輩と同じくらいに茶道が大切で愛してきた。それなのに……この五年間は先輩の死を悲しむばかりで茶器に触れることも、手入れをすることすらしない。「忙しい」と言い訳して抹茶を口にするのを避けていた事実に気づかされたのだ。
もうすぐ習い始めてから十五年になるもののブランクがある。正直なところ、感覚が鈍っている気がしてならない。
車に鍵を掛けた瞬が「おい、花音。何をしてるんだ!」と突然、怒鳴り声をあげた。
何ごとだろうと思い、顔を横へ向ければ「パパー、おかえりなさい!」
風邪で寝込んでいるはずの花音ちゃんが普段着の格好をして自転車を漕いでいたのだ。熱が出ているからだろうか、それとも乗り慣れていないせいか、右へ左へフラフラしている。まるで、やじろべえを目にしているようで見ているこちらがハラハラさせられる。
彼女は父親である瞬の前でブレーキをかけ、自転車を止めた。
「すごい? 花音、ちゃんと乗れたよ」
褒めて、褒めてと彼女はまなじりを下げて、はにかんだ。
「『乗れたよ』じゃないだろ! おうちで寝てなきゃ駄目だろ!? ママとじいじや、ばあばはどうしたんだ?」
「じいじと、ばあばは、おうちに帰ったよ。ママはね、お料理中――」
「花音!」
玄関の扉が開くと顔を青褪めさせ、今にも泣きだしそうな表情をした志乃さんが飛び出してくる。
「瞬くん、それに薫くん」
胸に手をあてた彼女は、うろたえたが娘の花音ちゃんが夫である瞬のそばにいると気づくと、すぐに駆け寄ってきた。
自転車に乗っている花音ちゃんを前にして、志乃さんは眉を八の字にした。
「花音、どうして、おうちを勝手に出たりしたの? お薬のおかげで熱が下がっているだけなのよ。無理をしたら、また苦しい思いをするわ」
「だってパパのお迎えしたかったの。花音、薫くんが来るから自転車、乗れるよって見せたくて……」
「それはパパのスマホで動画を撮って薫おじちゃんに送るんでよかっただろ?」
花音ちゃんは自転車から降りて、ぶうたくれた顔をしたまま不満げに肩を揺らした。
「パパのバカ、嫌い!」
「花音、そんなことを言っちゃ駄目よ!」と志乃さんが悲鳴のような声をあげる。
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