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第7章 身体の記憶2

 すると彼女は、おれの背中のほうへ隠れた。まるで柱の影から顔を覗かせて、烈火のごとく怒る父親と不安そうな顔をして嘆く母親の様子を、オドオドしながら伺った。 「花音、こっちへ来るんだ!」  瞬が怒鳴り声をあげる。 「薫おじちゃんは、親戚のおじさんじゃない。パパのお友だちで、大切なお客様だ。おまえだって薫おじちゃんが病気で入院してたのを知ってるだろ? おじちゃんに風邪を移したら、どうする」 「……薫ちゃん」  花音ちゃんズボンを掴み、助けを求める目でおれを見上げた。  おれは、小さな女の子を安心させるように微笑んだ。 「大丈夫だよ、花音ちゃん。おじさんも風邪くらいなら倒れたりしないから」 「薫!」 「待て、瞬。花音ちゃんにも彼女なりの意見があるのかもしれない」 「だけど……!」と瞬は狼狽し、複雑そうな表情を浮かべ、言葉を詰まらせる。 「瞬くん、目を離したわたしが悪かったの。ここは薫くんに花を持たせてあげて」 「志乃まで……」 「普段から少し、わがままなところはあるけれど、こんな大胆で無謀なことをするような子じゃないもの。わたしも花音が、どうしてこんなことをしたのか知りたいわ」  しばし沈黙してから、瞬は肩を落とし、脱力しながらため息をついた。 「わかった、わかった。オレは一旦黙っておく。だけど、あんまり長くは待てないからな」 「ああ、ありがとう」  首を縦にしてうなずいた。腰を落とし、叱られるんじゃないかと怯えている少女に目線を合わせる。 「こんにちは、花音ちゃん、具合はどう? 風邪を引いて、つらい思いをしてたってパパから聞いたよ」 「大丈夫よ、薫ちゃん。今は元気……」 「よかった。それにしても、どうして自転車に乗ってたの? いつもなら、おうちの玄関で、お迎えしてくれるのに。自転車に乗れることをパパに見せたくて練習してたのかな?」 「うん……」  彼女は落ち込んだ様子で首をゆっくり縦に振った。 「でも、病気が治ってからじゃないパパとママが心配するぞ。また花音ちゃんが苦しい思いをしたら、ふたりとも悲しくなっちゃうよ」  唇を尖らせた彼女はティーシャツの腹部を両手で握りしめながら目線を横にやる。  「だって、自転車の乗り方、わかんなくなっちゃう。パパも、ママもお仕事で忙しいのに教えてくれたのに花音、また、乗れなくなっちゃう」  なんのことかと思い、志乃さんにアイコンタクトを取る。 「先週の日曜に乗れるようになったばかりなの。毎日練習して、ようやく乗れたんだけど風邪を引いてから今日まで、五日も乗ってないわ」  ああ、そういうことかと合点がいく。 「パパとママに一杯教わった自転車に乗れなくなるのが怖かったんだね」 「うん。幼稚園の子は乗ってるのに、花音だけ乗れなかったの。お出かけ、みんな自転車で、花音だけ歩き」 「ようやく乗れるようになったことを幼稚園のお友だちにも話したかったし、みんなと一緒に自転車でお出かけしたかったんだね」  小さな声で返事をして軽く首を振った彼女が目を潤ませた。  持っていたポケットティッシュを渡し、寝癖のついている髪をひと撫でする。  「大丈夫だよ。身体の記憶は一度覚えたものを忘れない」 「どういうこと、薫ちゃん?」と小首をかしげる。鼻を鳴らしながら涙の出てきた目にティッシュをあてた。 「花音ちゃん、前、幼稚園で手を怪我しちゃってギブスをしていただろ。何ヵ月も使えなかったのに手が治って、リハビリをするときには花音ちゃんはお箸を持てたし、ボタンのつけ方や外し方も忘れていなかった」 「あっ」と小さく声をあげ、彼女は顔をうつむかせた。 「自転車も同じだ。それに、もし乗れなくなっても花音ちゃんが『乗りたい』って気持ちがある限り、また練習すればいい。パパやママだって、花音ちゃんが、がんばるなら応援してくれるし、なん回でも教えてくれるはずだ」  すると彼女は、おれのところから離れて両親のところへ行った。 「パパ、ママ……ごめんなさい」  志乃さんは「何もなくてよかった」とほっとした様子で、涙をこぼしている娘を抱きしめる。 「今度は、ちゃんとママに言ってからにするんだぞ。後、ひとりで自転車に乗るのは、いっぱい練習をしてからな。車のルールも勉強だ!」 「うん……パパ、『嫌い』って言って、ごめんね。花音、パパのこと嫌いじゃないよ」 「『そこはパパ、大好き!』って言ってほしいんだけどな……。」と瞬は頭を掻いていた。  そんな夫の姿に苦笑しながら志乃さんが花音ちゃんを抱き上げた。 「さあ、中へ入って。熱が上がったり、咳が出たりしたら大変よ」 「薫おじちゃんと一緒に文化祭のお土産を買ってきたぞ」 「ほんと!?」  蕾が花開くように花音ちゃんは満面の笑みを浮かべた。 「ほんとだ。だからママと一緒に家へ入って手洗いうがいをするんだぞ」 「うん、わかった、パパ! ママ、おうち入ろう!?」 「そうね。入ったら、お熱を測るのよ」と志乃さんは花音ちゃんを抱っこしたまま玄関へ向かう。 「はーい」  瞬はというと花音ちゃんが乗っていた小さな子ども用自転車を押して、車庫へ戻している。

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