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第7章 身体の記憶3
おれは彼の後をついていきながら、ため息をついた。
「すごいな、子どもは。こちらが教えているようで、教えられることがこうも多いんだな」
「ああ、そうだ」と瞬は車庫の端に自転車を停めた。「高校の事務をやってても、そういうのはよく感じる。けど、花音が生まれてきてから、余計にそういうのを感じるよ。毎日、手探り状態で父親をやって、一日ずつ成長していく花音の姿を見ながら、自分もまだまだ未熟だなって思い知らされる」
「そうか」
いつの間にか楠先生に言われたことに対する苛立ちは、どこかへ消えていた。不思議なことにおれは、彼の口にした言葉の意味を考えていたのだ。
「がんばれよ、お父さん」
「なんだよ、上から目線で」
軽口を叩きながら、おれたちは家の中へ入っていった。
夜、新幹線に乗って東京のマンションへ帰ってきた。
部屋の灯りをつけ、「ただいま」と挨拶をして先輩の遺影を見つめる。
キッチンに立って米を洗い、炊飯器のボタンを押す。次いで、やかんの中に水を入れ、コンロの火をつけた。
食器棚の中に入れてある自分用の抹茶碗を出す。
茶せんは、五年前に先輩が事故死する日の朝に使って以来、使っていない。おれが倒れた後、教授たちが厚意で片づけてくれたものの洗剤で洗われてしまい、そのままなんの手入れもせずに放置していたから黒カビが生えて、状態が悪くなっている。
茶しゃくの状態はよく、そのまま使えることに安堵する。
お茶の葉やコーヒーを入れている棚から、お気に入りの抹茶が入った小さい茶筒を出した。以前は蓋を開けてすぐに、かぐわしく濃厚なお茶の香りがしたが、今は、においが飛んでいる。粉もサラサラとしておらず湿気にやられ、ダマになっていた。
「やはり買ってきたよかったな」
急いで買ってきた茶せんと、いつも愛用抹茶の入った小さな茶筒をカバンから取り出した。
ご飯が炊けるまでの間に仏壇の両サイドへ花屋で買った花を活ける。
華道も習っている母と比べたら、よい活け方とは言えないが、ずっと何も飾っていなかった殺風景な仏壇に華やかさが出る。
わいたお湯をティーポットへ移し、建水用の大きなボールとふきん、茶こしを準備した。
湯を注いで椀を温めながら、茶せんを振って椀を回し、お湯を捨てる。茶こしの中に抹茶を入れ、茶さじを使って山を崩してから、お湯を入れる。茶せんを持ち、果たして五年ぶりにできるものだろうかと思いながら息を細く、ゆっくりと吐き、邪念を捨て意識を集中させた。
目の前の小さな世界で緑色の液体が波立ち、細かな泡を作っていく。抹茶と竹のにおいに、シャシャシャと聞き慣れた細かい音が心地いい。
点てたお茶を仏壇にも供え、炊きたてのご飯を供えた。彼のフェロモンに似た白檀の線香に火をつけ、りんを鳴らし、手を静かに合わせる。
五年前と変わらぬ笑顔の写真を見つめながら、先ほど入れた抹茶を一口飲み、椀で手を温めながら出会った日から最期の日となった朝のできごとを思い出す。
「先輩、おれは行ってもいいのだろうか?」
返事がないことをわかっていて、自分の胸の中にあった本当の思いを彼に告げた。
「このマンションは俺ひとりには広すぎる。あまりにもあなたとの思い出がありすぎて、描いた未来が実現できない現実を思い知らされて、いつもさびしくてしょうがない気持ちになるんだ。自分ひとりでがんばろうと思ったが、給料でまかなえないくらいの金がかかって、どうしようもない。生活が苦しくなって『明日をどう生きようか』と不安になる。こんなことを思ったらいけない、先輩が怒るとわかっているのに、『いっそ、おれも死んでしまおうか』と魔がさすことすらあるんだ」
ゆらゆらと揺れるこころもとない白い煙を眺める。よい香木を使っていて薫りが高い。人工的に作られたにおいではないが、それはおれが今、本当にほしいものとは違う。
「瞬から話を聞いて、今日、高校へ行ってきたんだ。……やってみたいなって思う。もちろん面接に受からないと意味はないんだが。……厭味ったらしい教師が茶道部の監督をしているんだ。変なやつで人をバカにしているのか、それとも心配しているのかよくわからない。でも……結局、その男に気づかされた。あなたが死んでも、おれの中にあなたの記憶が生きている。こうやって遺影を前にしているだけで、一緒に過ごした日々を昨日のことのように思い出せる」
年下の男に諭されたことにも気づかないくらい、怒りや悲しみに自分が飲まれていた。なんて醜態を晒したのだろうと恥ずかしくなり、同時に自分にあきれてしまう。
お茶をやり、ようやく冷静さを取り戻した今なら、わかる。
先輩は、おれの決断を頭から非難したり、怒ったりしない。「いいよ。薫が決めたんだから」と耳の奥で懐かしい声が聞こえたような気がした。
小雨がパタパタと降り始める音が外からする。
やれるだけのことをやって、駄目ならまた考えよう。
そうして面接を受けたいと瞬に連絡をとり、自分の中に眠っていた感情を言葉にした。
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