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第8章 お互いに歩み寄る1

 ――ワイパーを使い、雨の降り始めた道中を進む。 「いえ、ですから俺は、思ったことをそのまま言っただけです」と困ったように楠先生が返事をする。 「では、先生はおれの存在が個人的に疎ましく思えて、この学校にふさわしくない人物だと判断したから、あのような発言をされたんですか?」と問いかける。 「そんなつもりで言ったわけではありません!」  不本意極まりないという顔をして彼は、こちらへ目線をちらっとやって正面を向いた。 「先生は『嫌われるのは、いつものこと』と言いますが、おれこそあなたに嫌われているんじゃないかと思い、今日まで過ごしてきました。和菓子を準備してもらったのも、ほんとは話しもしたくないからかと勘違いしてたくらいです」  肩の力を抜き、横にいる彼の顔をチラ見する。仏頂面をして眉根を寄せている。 「どこでも最初の一週間は目まぐるしいでしょう」と、さも当たり前のように言った。「おまけに桐生さんは、住み慣れた場所を離れて栃木に来たばかりです。朝霧さんはいい人だし、おばさんや鈴木さんも悪い人じゃないが、田舎と都会じゃ違うことも多い。がんばっているあなたをこれ以上、困らせるのも忍びなく、はな屋のおじさん・おばさんい頼みました。善意でやったつもりでしたが結局、このように誤解を招くのだったら、最初から一言あなたにも伝えておくべきだったと反省しています。すみません」 「そうですね、先生はいつも主語が抜け漏れしていたり、言葉が足りません。後からつけ加えてくれればいいのに、それすらしないから、威圧的な物言いの人だなって最初にお会いしたとき思っちゃいました」  すると先生は気まずそうに目線をウロウロさせ、唇を噛んだ。 「よく……言われます。おばや朝霧さんにも『それじゃ意味が伝わらない』『その言い方だと人を怒らせるぞ』って」 「自覚あったんですね」  さっきの仕返しというわけではないが、つい鼻に手をあて口元をゆるませてしまった。  ああ、こういう意味だったのかと、周りの人たちが言っていた「先生は言葉が足らない」「寡黙」という意味がようやく理解できて、痛快だ。  おそらく、この人は曲がったことが大嫌いで社会のルールや規範を重んじる。その上で自分の気持ちや感情を大切にし、素直に生きている人なんだろう。  肩を震わせて笑っていれば、「笑わないでくださいよ。俺のコンプレックスなんですから」と先生は、いじけた子どものように唇を突き出した。 「ごめんなさい、バカにしたわけじゃないんです。ただ、楠先生みたいに真っ向から勝負するみたいにストレートな物言いをする人は、おれの周りにはなかなかいなかったので。悪意なく本当にそのまま言ってたんだなって思ったら、なんか先生が急にかわいらしく思えて」 「かわいい?」  器用に片眉を上げて、戸惑った声を上げてくる。  事実、先生の顔つきはアルファらしく精悍な顔つきをして凛々しい。人によってタイプはそれぞれだろうが、武士や侍、騎士のように主人に忠誠を誓い、恋人を一途に思い、守る男やアルファが好みな女性陣やオメガからしたら、まさに理想を絵に描いたような人物だろう。  一見すれば「かわいい」という言葉は、あてはまらない。  しかし直前に笹野さんの言葉を聞いていたおれには、もはや先生が黒柴にしか見えない呪いに掛かっていた。頭の上に三角の耳がついてる幻覚すら見える。 「はい。言葉だけ聞いてるとすごくキツい印象なのに、そうやって傷ついたり、真剣に悩んだり、がんばって伝えてこようとしている姿が、健気で。あー、若いんだなって。先生が女子生徒から人気な理由が、わかります。母性、くすぐるタイプなんだなって」  目に浮かんだ涙を人差し指で拭い、膝に手を置く。  息を細く長く吐いていれば、「いつもの仮面をかぶったような表情じゃないんですね。涙を流したり、ため息をついているほうがいいですよ」とまた、いつもの難解なパズルの問題を出すみたいな発言をする。 「どういう意味か、おれにもわかるように言ってくださいね。じゃないとおれの顔のことをバカにして『泣いてたり、ため息をついて悩みごとがあるほうがいいぞ』って言ってるんだって受けとります」  赤信号になり、車が止まる。先生は右手で鼻の頭を擦った。 「……番がなくなったショックか、仕事が見つからないせいか知りませんが、桐生さんは文化祭で出会ったときからさっきの瞬間まで笑顔を見せてくれませんでした。それは図書館の受付をやっているときも同じです」 「それは、どういう意味です?」  噛み砕いて説明してほしいのに、ますますわからないことを言われ、腕組みをしてしまう。  先生は「なんで、わかってくれないんだ」という顔でこちらをじーっと見てくるが、はっきり言って、さっぱりわからん。日本語のしゃべれない外国人がジェスチャーなしの状態で、一方的に母国語を延々と話しているようなイメージが頭に浮かんだ。   「つまり負の感情を隠して、堪えている人の作り笑顔だったって言ってるんです」と先生は端的に話し、車を発進させた。「一概に言い切れるものではありませんが、目が曇ったガラス玉みたいで口元だけ笑みを浮かべている。もちろん仕事で笑顔を作る人も多数いますが、それとは異なる、違和感があって不自然な笑顔なんです」

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