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第8章 お互いに歩み寄る2
左手を頬にあて今までの自分の行動を振り替える。
この五年間、家族や職場、病院の人間や面接官相手に営業スマイルを浮かべたり、愛想笑いはしていた。
心が動くくらいに楽しいことや、うれしいことがあって笑ったことは一度もなかった。
いつも仕事や金をどうしよう、先輩のいないこれからの人生をどう生きていけばいいのだろうと思い悩んでいたのが、顔に出ていたのだろうか?
「もちろん人間ですから悲しいことやつらいこと、悔しかったり、怒ったりすることもあります。でも、その人たちは『人間、笑わなきゃ生きていけない』と無理をして周りを心配させないために笑顔を作るんです」
「でも、笑顔ってストレスをなくす効果があるんじゃないでしたっけ?」
「その通りです」と先生は首を縦に小さく振った。「笑顔はストレスの軽減になります。泣いたり、ため息をついたり、読書をすること、文章を書くことなんかも軽減法として認められています」
「だったら――」
「でも、それは今を幸福に思っている人にだけ効果があるんです」
どこか、さびしそうな目つきをしながら先生はハンドルをギュッと握り直した。
「本当は泣きたかったり、悔しい思いをしたり、怒りたいのに『笑わなきゃいけない』と思って笑えば笑うほど、むしろストレスの負荷がかかるんです。そんなことを二十四時間、三百六十五日毎日休みなしでやっていれば、無理して笑っている人間の心は疲弊し、最後には本人の首を締め、殺します」
「まるで、そういう人間を実際に目にしたみたいですね」と言いかけて口をつぐんだ。
まっすぐ前の景色を見て安全運転をしている先生の目は、流れゆく夜の町並みや風景ではなく、遠くにいる誰かを――ここにはいない人を――見ているような目つきだったから。
「だから、今、桐生さんが笑ってくれて、うれしいです」
「うれしい? どうしてです?」
なんで出会って間もないおれの笑顔をうれしいなんて言うんだろうと小首をかしげる。
「俺の大切だった人は、俺の目の前で、ずっと無理して笑っていて、本当の自分の気持ちに嘘をつき続けていました。そうして我慢の限界になって命を断ったも同然の死に方をしました。桐生さんには、そういうふうになってほしくないです」
やはり、そうだったのかと腑に落ちる。この人が必死になって、おれに何かを言ってきたのは、亡くした人の二の舞を演じる人間を見たくないというのが大きかったのだ。
家族だろうか、それとも友だちや恋人だったのかは知らないが、その人物はおれと同じ男のオメガである可能性が高いと憶測する。
「……申し訳ないです、こんな重い話を急にしてしまって」と彼は謝罪の言葉を口にした。
「いえ、大丈夫ですよ。おれも、先生と似たようなものですから」
「あなたのことを嫌っているわけじゃない。ただ、年上とは思えないくらいに危なっかしくて目が離せません。まるで高校の生徒たちを見ているようだ。だから、つい、こうやって余分ごとを言ってしまうんです」
危なっかしいなんて二十年以上生きてきたが一度も言われたことがないぞと内心愚痴を吐く。
雨の音をBGMにして彼の言葉に耳を傾ける。
「見ず知らずの俺が見ていてハラハラさせられるんですから、あなたのことを大切に思っていたアルファは死んだ後も気が気でないだろうと思い、あんなことを口走りました。ですが、桐生さんは実際には大人で、俺よりも年上の人です。失礼なことを思ったり、言ったりして気分を害してしまったたのなら、お詫びします」
どこか落ち込んでいるような声色で先生が、こちらに目線をやった。目線が合ったものの彼はすぐに目をそらしてしまう。
「謝ってほしいわけじゃないです。ただ、こうやって先生の話を聞きたかっただけですから」
「わけがわからないのに聞きたいんですか?」
「そうですよ。あなたの生徒たちや瞬、笹野さんや鈴木さんみたいに、先生と話せるようになりたかったんです。ただ、淡々と挨拶をして最低限の会話をすることもできます。あくまで同じ学校に勤めているだけですし。子どものときは人と会話をするのも嫌いだったんです。でも、大人になってからは、いやなこと・つらいことがあっても、こうやって人と話をするのが好きなことに気づけました。恋人を失って体調を崩すまでは、これでも接客業をやっていたんですよ」
「……そうですか」
「そうですよ。そうすれば茶道部をやるときに前もって準備がしやすいです。どういうことを子どもたちに伝えるかとか、今日は何をするとか、和菓子についてのすり合わせもできるし。図書館で会ったときも力になりやすいです。古文の教材や受験生用の問題集のコピーが必要になったときは気軽に言ってくださいね。まあ、新人なんですけどね」
この人は人を陥れようとしない、人を傷つけるためにわざとひどい言葉を口にする人じゃないとわかってしまったら、あれだけイライラしていた気持ちがすっとなくなって気持ちいい。胸のつかえがなくなり、よかったと自然に口元がゆるんだ。
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