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第8章 お互いに歩み寄る3

「変なやつ」と言いたげな様子で先生が、こっちを見てきたが構わない。そのまま笑みを浮かべてアイコンタクトをとる。  そうして話すこともなくなり、ふたりで無言でいるが、行きの車の中にあった重苦しい感じはない。むしろ心地よさを感じながら揺られていた。  気がつけば朝霧一家の住む戸建て住宅の前についていた。 「送ってくださり、ありがとうございました。助かりました」と礼を述べ、カバンの中に入れてある折りたたみ傘を出す。 「あの……」 「はい?」と返事をするが一向に先生は、しゃべらない。  スマホを持つ彼の手を連絡先交換だなと合点がいく。 「LIME、やってます?」  アプリを起動しながら訊く。 「はい、やってます」 「じゃあ、交換しません?」  無言でうなずく彼と自分のスマホを動かし、登録する。  先生のLIMEのアイコンは、かごの中で抱き合うようにして丸くなっている黒猫と白猫だった。 「かわいいですね。もしかして、先生、猫を飼っているんですか?」 「ああ、はい」 「ははっ、いいな」  シンデレラほどの大きさではなく通常サイズの猫で短毛種だ。  どちらも幸せそうな顔をしてグッスリ寝ている。きっと主人である先生に愛情たっぷり、かわいがられているのだろう。  おれも給料が貯まったら金魚や亀でも飼おうかなんて思いながら画面越しに映る猫を指先で撫でた。  マンションを手放し、心機一転しようという気概になる状態にはなったが――ひとりで家に帰り、冷たい布団でひとり寝をするさびしさを知ってしまった。そんなときは無性に先輩に会いたくなり、彼と過ごした日々や番った夜のことを――思い出してしまうのだ。 「そうだ、先生、先日は失礼な発言をして、ごめんなさい。それから、ご助言をくださり、ありがとうございました」 「何がです?」  黒のケースに入ったスマホをドアポケットへ戻し、怪訝な顔をする。 「文化祭のとき、怪我のこととか心配してくださったのに、ぞんざいな態度をとってしまったこと先輩がマンションに固執する人じゃない、彼だったらどうするかってことを気づかせてくれたからです。活を入れてくださったので目が覚めましたよ」 「桐生さん、あの……!」  突然、大きな声を車内で出す楠先生の姿に目を丸くしてしまう。 「……いやでなければ朝、迎えにいきます。帰りも家でも送ります」 「えっ……」 「怪しいこと言ってて『何言ってるんだ、キモいぞ』って自分でも引いてますよ。でも、やっぱり朝霧さんにも、お世話になるくらい困っている状況ですし、ここら辺は車を持ってない人間には行動しづらいです」 「べつにキモいとかは思ってませんよ」  むしろ、ありがたい発言だと思う。でも――「先生にもご迷惑をお掛けします。ご家族や懇意にされている方だって、突然やってきたオメガを車に乗せたりしたら、いい顔をしませんよ。半年後には車を買って乗車練習するつもりですし、それまでの辛抱です」 「あなたを乗せて怒る人間はいません。むしろ、おばがオメガであるあなたに親切にしないことを怒ると思います」  ゴリ押しで先生の車に乗るようにした笹野さんを思い出す。確かに同じオメガである彼女なら、ここら辺の治安も知っているから『何やってんのよ、大和くん! 桐生さんに、もしものことがあったら、どうするの!?』とガナリそうだ。  でも、あれだけひどい態度をとっていたのに、手のひらを返したように先生の厚意に甘えるのも、どうかと悩む。 「住まいが近くなのに朝霧さんの車で送迎してもらわないのは、朝霧さんとふたりきりになって万が一、間違いが起こったときに奥さんや娘さんを悲しませたくないから……ではありませんか?」 「……先生、まさか超能力者とかじゃないですよね?」 「そんなわけないでしょう。俺はただの国語教諭です」とゲンナリした顔をする。  オメガの発情期は基本的に子種を持っている優秀なアルファの子どもを孕み、子孫を繁栄させるためにある。  だが、オメガの中にはアルファだけでなく、ベータや同じオメガすら誘惑し、誘い込んでしまうフェロモンを出す人間もいる。  おれは発情期にアルファだけでなく、ベータの人間すらも誘い込む体質のオメガだ。  中学時代、秋の球技大会の際に発情期を起こしてしまった。  体育館でドッジボールをやっている最中に息苦しくなり、身体が熱くてどうにかなりそうだと座り込んでいたら、上級生の見知らぬアルファに押し倒され無理やりキスをされてしまったのだ。  そのまま服を脱がされそうになり、抵抗した。  普通はオメガがアルファに襲われている姿を目にしたベータの多くは、警察やほかのベータを呼んでオメガを助けたり、性行為を見ないようにその場を立ち去る。  しかし体育館内にいたベータたちは男も、女も取り憑かれたかのように目の色を変えて、こちらをじっと凝視していたのだ。  まるで解剖されているカエルの姿を興味津々で見ているような、じょうろでアリの巣の中に水を入れて溺れるアリの姿を観察するような無数の目に晒されながら、アルファに強姦される恐怖に絶望した。

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