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第8章 お互いに歩み寄る4
運よく捻挫した子どもを見に来たオメガの保険医と、校庭で行われている球技を見ていたアルファの体育教師に助けられた。犯され、首を噛まれる最悪の事態は脱したものの好きでもない男にキスされた挙げ句、全裸にされた事実は変わらない。
助けを呼んでも誰も来ないし、何もしてくれないんだとショックを受けたせいで一週間以上、高熱を出して寝込んだ。結局、中学での三年間は教室へ行くのが怖くて、保健室や相談室で勉強する形になったのだ。
そうして他人が怖くなり、言葉を口にすることは無意味なことと思うようになった。大学で瞬と出会い、先輩と健全交際をするようになるまで、そのときの恐怖が尾を引いた。
「じゃあ、どうしておれが、発情期にベータも誘い込んでしまう体質だとわかったんです?」
先生は雨が降っている外の風景を見つめながら「あなたと似た体質のオメガが周りにいたからです」とまた、メガネ越しにさみしそうな目つきをして静かにつぶやいた。
肩を上げてからストンと落とし、口を開いた。
「オメガの生徒が発情期になった際の応急処置について講習で学んでいるので、あなたが急に発情期を迎えても適切に対処できます。毎日、あなたを送り迎えするのは授業の準備で難しいですが、少なくとも平日の二、三日なら大丈夫です」
「ですがガソリン代だって掛かりますよ。先生だってお忙しいのに、朝だって出勤時間が早くなってしまうでしょう」
「俺の乗ってる車は長距離運転をするほうが燃費がいいので、むしろ桐生さんの家の近くまで来るほうが助かりますね。後、早起きには慣れています。残業のときは、あらかじめLIMEで連絡しますよ。後は桐生さんがどうしたいかです」
「……本当にいいんですか?」
「はい、問題ありません」
単刀直入な言葉に嘘は含まれていないだろう。
だが変に気を遣われている可能性もあり、念のため、疑問に思っていたことを口に出す。
「その、もしも笹野さんに指摘されるのがいやで提案しているのでしたら、お気になさらないでください。仕事のシフトが一緒のときに、『丁重にお断りした』とちゃんとお伝えしますから」
「確かに、おばが言った言葉で動いたようなところもあります。はな屋に行ったのも、彼女の言葉がきっかけですし。ですが、人の言うがままに動いているわけではありません。これは俺が自分で選び、決めたことです」
まっすぐな目で見つめられていると、まるで太陽を見ているようでまぶしいなと思ってしまう。
「空回りをするし、変なことも一杯言うと思います。ですが、少しでも何か力になりたいと思っているのは本当です」
「……ありがとうございます。では、明日からお願いしてもいいですか?」
すると、さっきまでの真剣な面持ちからパッと表情を明るくさせ、顔をクシャッとさせて笑う。「はい、任せてください!」と元気よく返事をする姿は、素直でまじめな好青年そのものだ。
根気よく彼の話を聞いて、どういう人柄か知った人間からすると、この笑顔にグッと来るだろう。ずっと懐かなかった訳ありの猫や犬が心を開いて、「うれしい」と喜ぶ人たちの気持ちが、なんとなくわかるような気がする。
背後で高速回転するフサフサの尻尾が見えるようなテンションに、つい口元がゆるんでしまった。
「それでは明日の七時四十五分に迎えに行きます。時間は大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。ここで待っていますね」
別れの挨拶をして傘を差し、車を出る。彼の車を見送って降りしきる雨の中を歩く。
だが、おれの足取りは軽く、心はようやく長い雨がやみ、曇天が晴れたかのように晴れ晴れとしていた。
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