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第9章 雪あかりに照らされた道6
「行こう」と言い、彼女たちは、その場をさっさと逃げていった。
発情期を無理やり起こされたせいで、高熱を出したときのように全身がだるい。一歩足を踏み出すだけで筋肉や神経が悲鳴をあげる。
開けっ放しになっているポシェットの中を見るものの抑制剤は、やはり残っていない。カバンの中を見ても、ポケットの中に運よく一錠、紛れ込んでいる状態でもなかった。
とりあえず急いで保健室まで行こう。あそこへ逃げ込めばアルファやベータに襲われることもないし、抑制剤を摂取できて発情期を止められる。
カバンの中にポーチを入れ、歩き出すとスマホが鳴り始めた。画面には「楠大和」の名前が表示される。
神に縋るような思いで通話ボタンを押す。
『桐生さん、今、どこにいるんですか? 生徒たちも待っていますよ』
「……っ」
『桐生さん、どうしました? 何かあったんですか!?』
「……せんせ」
まるで先輩と夜を過ごしたときのように甘ったるい声で彼のことを呼んでしまい、おれは自分の声に狼狽した。
『発情期を起こしたんだな……今、どこにいる!?』
「あっ――」
『あの人には好きな人がいるんだから』
急に心臓が痛みを発し、気がついたら電話を切っていた。
先生に助けを求めるべきだったのにと悔やんでも遅い。
眼前にモヤがかり、自分でも何をやっているのかよくわからなくなってきている。最悪なことに腹の奥が熱っぽくなり、疼き始めている。
今、アルファやベータの男と出会ったら、まずい、早く抑制剤を……。意識が朦朧とする中、足を動かし、人目を避けて保健室へ向かった。
「ついてないよな、雪が降って体育館で練習なんて」
「だよな。体育館なんて、ほかの部が使ってるのにさ」
「そっちはメニュー何?」
「基礎練と筋トレ」
保健室が目と鼻の先というところで、野球部の生徒とサッカー部の男子生徒たちがユニフォームを着た状態で、ぞろぞろ前を歩いていく。
とっさに建物の陰に隠れ、口元を手で押さえて息をひそめる。
「コートを使えるバスケ部やバレー部のやつがうらやまだわー」
「それな。剣道部と柔道部も広く使えるんだぜ?」
「一番テニス部が得してるだろ。卓球部とバトミントン部の場所を借りて素振りができるんだから」
「それなー……っていうか、なんかあっちのほうから甘いにおいしねえ?」
ドキッとしながら声のするほうに視線をやる。
「だよな。花? 菓子のにおい?」
「アトラクションのケーキみたいなにおいじゃね?」
「いやいや屋台のわたあめだろ。なんだろな、この香り」
彼らに気づかれないよう慎重に足を運び、壁伝いに動く。
しかし――「なんか、やけに頭がクラクラしねえか?」
「無性に腹が減るよな」
「あれじゃね、調理部の子が差し入れに……桐生さん?」
見つかってしまい、身体を強張らせる。壊れたぜんまいじかけの人形のように首を動かし、少年たちのほうへ顔を向けた。
いつもなら快活に笑い、目をキラキラと輝かせている彼らの表情は、あ の と き の同級生たちと同じだ。
「そっか。オメガの発情したにおいだったのか」
「あ、ああ……保健室の抑制剤をもらいに行こうと思ってな。悪いが、どいてくれないか……?」
発情期の来ていない状態でオメガのフェロモンを自分で使うのとは状況が違う。
勝手にベータの男やアルファの男女を呼び寄せる状態になっている。
息切れやめまい、飢餓状態といった症状も現れる中、彼らに声を掛け、道を開けてほしいと願った。
「なあ、どうする?」
「オレらベータだし、部長のところに連れていくべきだよな」
「それもそうだよな。やっぱ最初はアルファに訊 か な い と 」
さあっと全身から熱が引いていくのを感じ、もつれる足で走って逃げようとしたら、取り囲まれてしまった。
「桐生さん、お連れしますよ」
「部長たちのところに――アルファのところへ行きましょう」
酒を大量摂取し、理性をなくしたかのように虚ろな目をした生徒たちの手が、こちらへ伸びてくる。
「そこ! 何をやってる!?」
まるで番犬が突然、侵入者に吠えるような大声がした。
「せんせぃ……」
待ち焦がれていたアルファの出現に、おれの中のオメガの本能が歓喜する。
しかしながら、まだかろうじて理性を手放していなかったおれ自身は、頭から冷水を浴びせられたような絶望的な気分になった。
「おまえたち、発情期になった桐生さんに手を出そうとしたのか?」
「ちっ、違います! そんなことしようなんて滅相もない……!」
「そうです! なんだか頭がぼうっとしただけで……」
「なら、早くこの場を離れて、さっさと部活の続きをしろ!」
「はっ、はい!」という声と、バタバタとその場を離れる足音がしたかと思うと、辺りがシンと静まり返る。
立っていることもできなくなり、その場で座り込んでしまうと先生が目の前までやってきてくれた。
「桐生さん、大丈夫ですか?」と肩に手を置かれる。
お日様のような香りに張りつめていたものがゆるみ、解きほぐされるような安心感がした。
同時に目の前の男 に抱かれ、口づけられながら、身体の奥を突かれたいなどと思ってしまう。そんな卑猥な欲求を持ち、性欲に身も、心も支配されていく自身に嫌気がさす。
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