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第9章 雪あかりに照らされた道7

「せんせい……注射を……」 「注射? 誘発剤を打たれたのか!?」  彼の言葉にうなずいている間にも欲望が首をもたげた。後孔は性器として収縮する。愛液を垂らし、下着が濡れ、肌に張りついた。  目の前にいる優秀なアルファであれば誰でもいいと思っている自分の身体や本能が気持ち悪い。  先輩を思いながら彼に雰囲気の似た先生を求めるなんて、そんな浅ましいことは絶対にしたくない。自分の心を傷つけ、先生の信頼を裏切るくらいなら、この舌を噛みきって死んでやると意思を強く持ち、オメガの本能を強引に理性で抑えつけた。 「抑制剤です。飲んでください」  真夏でもないのに汗をかいた先生から渡された錠剤を受け取って、迷わず口の中に入れ、カバンの中に入っていたペットボトルの水を出す。震える手でキャップを開け、口をつける。うまくできずマフラーやコートまで水に濡れてしまったが、今はそんなことに構っていられない。手で口元を拭い、熱い身体を壁に寄りかからせ、両膝を立てた状態で息をつく。 「桐生さん、念のため救急車を呼びますね」  スマホを手に取る彼の言葉に「心配無用だ」と返事をする。「先生、あれは正規のものだ……違法薬物や裏取引で使われるものじゃない。……発情期が定期的に来ず、番であるアルファの子どもを身ごもれない……オメガ用の誘発剤だから害はない」 「見間違いの可能性だってあるでしょう! 非正規の薬品はオメガの身体に大きなダメージを与える副作用があります。もし、あなたに何かあったら、ご家族の方や朝霧さん、あなたの番だったアルファが苦しみ、悲しむんですよ!? それなのに、どうして……」  今にも泣きそうな顔をして怒る彼の顔を目にして胸が痛んだ。  こんな顔をさせたいわけじゃなかった。もっとおれがしっかりしていれば何ごともなく今日を過ごせたはず。悔やんでも悔やみきれない。  薬の効果が出始め、頭がすっきりしてきた。震えもじょじょに収まり、身体の熱が一気に引いていくのを感じながら説明をする。 「おれを襲ったのは――文化祭のときに男子生徒をいじめていた女子生徒ふたり組でした」 「なっ!? あいつら、またか!」 「おれを逆恨みして……誘発剤を打ったんです。……アルファやベータの男に襲われ、あなたから嫌われるように……仕向けたかったみたいですよ」 「だったら、なおのこと、このまま放っておけるわけがない! 警察を呼ぶ。警備の人にも連絡するぞ」  彼の手を掴んで首を横に振った。 「……あの子たちだって停学処分を食らったんです。それに……三ヵ月後には卒業する。今さら退学処分なんて話になれば……親御さんが悲しむし、学校にとっても不名誉なことだ。おれは楠先生が来てくれたので大丈夫です……ですから、このまま不問にしてください……」 「桐生さん……何を言ってるのか、わかってるのか?」 「先生のおかげで抑制剤の効果も出てきて、頭もはっきりしてきました。ちゃんと自分の言葉も、あなたの言いたいことも、わかっています」  熱が引き、理性を取り戻しただるい身体で立ち上がる。 「今、生徒たちは受験を前にしてナーバスになっています。オメガの生徒たちも抑制剤を使って発情期の時期をずらしたり、医師の指導を受けた対策をとって受験勉強をしているんです。そんな大切な時期にアルファの生徒がオメガの大人を誘発剤を使って発情期を起こさせたなんて話を聞いたら、勉強に集中できなくなる。塾や予備校に行く金がないから学校で勉強している子も、安心して来れなくなってしまう。アルファ至上主義のふたりのために、未来に希望を持っているほかのオメガたちの将来を潰したくはありません」 「だから俺に『目をつむれ』と言うんですね。わかりました。しかしながら彼女たちの行為は本来やってはいけないことです。ほかの生徒にも、やる恐れがありますから職員や警備、事務、図書館の司書の間で情報共有と連携はさせていただきます」 「お願いします」  悔しそうに眉間にシワを刻み、唇を強く噛みしめながら、おれの意見を飲み込んだ。  そんな彼の姿を見ていられず、目をそらした状態で部室に向かって歩き始める。まだ完全に薬がきいていないからか足元がふらつく。  足が滑り、転びそうになったところを先生に抱きとめられた。  厚い胸板や大きな手が触れている感触、彼の身にまとった香りに思考が停止し、頭の中が真っ白になる。 「大丈夫ですか?」と尋ねられ、はっとして彼から離れる。 「すみません。部活に遅れた上、先生にご迷惑をお掛けして……」 「俺なら大丈夫です。子どもたちには『桐生さんが発情期を起こしたから年内最後の部活動はなし。各自、自宅でも練習しておくように』と指示して、はな屋の和菓子を渡しました」 「……そうですか、ありがとうございます」  子どもたちが楽しみにしていた時間を台なしにしてしまった。部活が、なしになったのなら帰宅するしかないと帰路に立つ。 「この後、病院へは行くんですか?」

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