46 / 102
第9章 雪あかりに照らされた道8
彼がくれた抑制剤で発情期がおさまったのだから病院へ行く必要はない。
そもそも年の瀬で発情期を起こしたオメガを見てくれる産婦人科自体、少ないのだ。ドラッグストアで抑制剤を買って発情期を終えるまで、戸締まりをよくして巣ごもりする以外の選択肢しかない。
「いえ、家へ帰って寝るつもりです。身体も、まだつらいので」
アルファの男女やベータの男を見境なくほしがる身体ではなくなったものの、無理やり誘発剤を打たれて起きた発情期を抑制剤で急いで通常のホルモン状態へ戻したわけだから、とんでもない疲労感が出る。
デパートの繁忙期にお客様のクレーム対応にレジ打ち、品出しを延々とやり続けたときのように鉛みたいだ。身体も、頭も重くて布団に寝転ぶことしか考えられない。
ひとりでバス停まで歩いていこうとしたら、先生に腕を取られ、彼の肩に手を回した状態にされる。腰にも手が添えられ、肩を貸してもらった状態で歩くのを補佐される。
「車でお送りします。俺も帰る準備をして、駐車場からこっちへ車を持ってきます。それまで保健室で待っていてください」
「先生、まだ子どもたちは帰宅時間じゃありません。過去問の解き方を聞きたい子だって校内にいるはずです」
「国語の教諭は現文・古文・漢文で担当がわかれていますが、全員、大学入試の問題程度なら解説はできます。俺が欠けても、ほかの先生方が生徒の対応をしますよ」
正門のほうへ向かいたかったのに保健室の裏口のほうへ連れて行かれてしまう。
「もう大丈夫です。薬も効いているので平気ですよ。だから、おれのことは構わないでください。先生だって、ほかにお仕事があるはずでしょう?」
「急ぎの仕事はありません。家に持ち帰ってやればいいし、そこでも終わらなかったら、また明日やります」
「やめてください」
ピタッと足が止まる。
楠先生の視線が、こちらに向いているのを感じながら、真白の絨毯が敷き詰められた足元を向く。
「ただでさえ、先生に、ご迷惑をお掛けしている身なんです。これ以上、お手数お掛けするわけにはいきません」
「べつに迷惑ではないし、手間も掛かりません。……俺は負担ですか?」
「違います! そうじゃありません……! そうじゃなくて……」
彼の電話に出たのは自分だ。だけど、こんなふうに困らせたり、仕事の邪魔をしたかったわけじゃない。
先輩以外のアルファやベータに、この身体に触れられたくなかったのだ。
でも、彼がもう地球のどこをさがしても、どんなに求めても二度と会えないことは発情期を起こして、どうかしている頭でも理解していた。だから――あの人にどこか似ている楠先生になら何をされてもいいと思ってしまった。服を剥ぎ取って裸にされ、全身に愛撫を受けながら熱い楔を身体の奥深くに受け入れ、白濁とした液体を注がれて項を噛まれたいと――血迷ったことを考えてしまったのだ。
なんて惨めで、浅ましいんだろう。
魂の番であり、一度は番った相手に対して申し開きもできないような妄想をした。
それだけじゃない。大切な仕事仲間で、すでに思い人がいる人間に性欲を感じてしまった。
脳が正常な判断をできなかったのは嘘ではないが、たとえ気の迷いでも先生に情欲を向けてしまった事実は覆らない。
そんなことを彼に知られたくなかった。
「先生は、言葉は足らないけど、すごく親切な人です。出会って間もないおれにも、やさしくて、いつもお世話になっています。でも、今のおれは異常で、普通の判断もできません。だから捨て置いてください」
「そんなこと、できません」
キッパリと言い切ると彼は前を見据え、ふたたび足を進めたのだ。
「あなたがよくても俺が大丈夫じゃないし、平気じゃないです」
「先生!」
「あなたが傷つく姿を見たくないんですよ! その気持ちは朝霧さんやおばさん、鈴木さんたちや、あなたの番だった人と同じです。あなたが悲しむようなことがあったら俺が、いやなんだ」
保健室の裏口に来ると、養護教諭をやっているオメガの女性がカップ片手に目を向いた。大窓を開け、暖房で温かくなっている中へ入るよう、促される。
「先生、それに桐生さんじゃないですか! 一体、どうしたんです!?」
「桐生さんが発情期を起こしました」
「ええっ!?」
「抑制剤は、もう打ってあります。今回のは、オメガの発情周期で起こったものではありません。誘発剤を故意に打たれて起きてしまったんです。この後、緊急の会議か、ミーティングをしたいと思います。終わり次第、家までは俺が送るつもりです。それまで彼をここに留めておいていただけますか」
「わ、わかったわ。放送室に行って先生方や事務の人、司書の方で集まれそうな人を募るわね。保健室の鍵は机の上に置いてあるから」
「はい、お願いします」
養護教諭が慌ただしく保健室を出ていった。
くつを脱ぎ、ベッドの上に腰掛ける。
「では、あなたが言った必要なことだけを伝えてきます。それまで、ここで休んでいてくださいね」
ともだちにシェアしよう!

