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第9章 雪あかりに照らされた道9

「……先生」 「なんですか? 桐生さん」  やさしい笑みを浮かべる先生に他意はない。  生徒を教え導く教師をしているときに浮かべる笑みをおれにも向けてくれただけ。  それなのに――変な期待をしてしまう。  狼の繁殖期は冬から春にかけてだ。人間でありながら狼と生態が似ているオメガの発情期が一番長いのは冬。抑制剤の効き目も悪くなる。  きっと、おれもまだ発情期の状態が続いているのだろう。そうでなければ、こんな愚かなことは口にしない。 「なんでですか……? おれは、あなたが亡くした魂の番と、あなたの好きなオメガと……似ていますか?」  目を大きく見開いた彼は、声をかすかに震わせて「誰から訊いたんですか? 俺の好きだった人のこと」とつぶやいた。 「誰にも訊いてません。あなたの発言やおれに対する態度から憶測を立てただけです」  熱が完全に引き、氷のように冷たくなった手を膝の上で組みながら答える。赤くなった指先を見つめ、返事を待つ。  先生は何も言わずに、なんの反応もせず、表情の抜け落ちたような顔をして、おれの前を通り過ぎていった。机の上にあった鍵を手に廊下へ出てしまう。  カチャッと小さく鍵を掛ける音がすると、すぐに足音が遠ざかっていく。 「……地雷を踏んでしまったのだろうか?」と独り言を口にして白い布団の上に身を投げた。  もう何もかもが、どうでもいい。そんな投げやりな気持ちのまま目を閉じる。  意識が途切れ、気がついたときには先生の車に乗せられていた。 「起きたんですね、桐生さん」 「会議は……」 「終わりましたよ。子どもたちも雪がひどいので全員、帰ってもらいましたよ」 「どうやって、ここまで運んだんです?」 「車を正面玄関につけて、あなたを保健室からおぶさってきたんです。身長はオメガにしては高くても、体重は女性のように軽かったので楽に入れられました」 「そう、ですか」 「もうすぐ家に着きますよ」と黒いハンドルを手にした先生が、淡々と告げる。  窓の向こう側を覗く。空は星がひとつも見えず灰色だ。でも真っ暗闇ではない。白い雪が積もっているからか夜にもかかわらず、ほんのりと明るい。  幼い子どもたちは外で雪玉を投げたり、雪だるまを作ったりして遊んでいる。犬も喜んで雪道をはしゃいで散歩をしている主人を引きずりながら走っている。 「先生の家の猫は、こたつで丸くなっていますか?」  おれの第一声が明らかに脈絡のない、おかしなものだからか、先生は眉間にシワを作って首をかしげる。 「それは、どういう意味でしょう? 我が家には、こたつはありません。ストーブならあります。うちの猫が見たいということですか?」 「いえ、外の光景があまりにも童謡みたいだったので、たまたま思いついたことを口にしただけです」 「へえ、そうだったんですね」  興味なさそうな返事が返ってきた。  それきり、おれたちは何もしゃべらず、無言を貫いた。  以前は、この車に乗って先生と他愛もない話をして、ときに沈黙が下りても心地よさを感じた。  古文は好きでも口べたで人に対してどこか臆病なところがある彼と、人と話をすることが好きでも本当の意味では他人を信じられないおれ。どこか似ていると思っていた。  彼は先輩ではないし、時雨のようにおれの弟になることはあり得ない。それでも瞬のように話ができる貴重な存在だったから後輩や、茶道部の顧問と監督として、これからもいい関係でいられると思っていた。それを壊したのは、おれ自身だ。  今となっては、どうしようもない。一度壊れたものは、もうもとには戻せないのだから。  車のワイパーがメトロノームのように動いて白い雪を視界から取り除いていく。 「……おれの好きだった人は、あなたが言うように、もうこの世にはいません」  突然、先生が話し始めて、おれの心臓は、おっかなビックリする。  何をしゃべるのだろうと息を飲み、真剣な様子で雪道を運転する彼の横顔を見つめた。 「俺の魂の番であるオメガでした。笹野――おばが東京の短大に行っていたときにできた親友で、おれよりも八歳年上の男。そのとき、おばは結婚相手であるアルファ――おれの義理のおじと、すでに同棲していたんです。小学校最後の夏休みに、東京にいる父へ会いがてら、彼女の家へ遊びに行きました。おばが学校の図書館でアルバイト中だとおじに聞き、大学の図書館に行ったら、彼と出会ったんです。一目見てわかりました。魂の番だって」 「その……不都合でなければ教えていただけませんか。先生が、いやな気持ちになるなら、何も答えないでください。どうして……その方と番にならなかったんですか?」  こちらをチラッと横目で見てから正面を向いて唇を、ふたたび開いた。 「俺の父親に無理やり犯され、番にされ、囲われたからです」  二、三秒、おれは考えることを放棄した。あまりにもショッキングな内容で、そんな恐ろしいことを脳みそが受け入れることを拒否したのだ。 「俺の父は、母とは籍を入れてません。あの人にはアルファの正妻が――俺にとっての継母がいるからです。父には母や継母以外の相手が何人も、何十人もいました。ベータやオメガの男や女の恋人、浮気・不倫の相手です。王侯貴族のいた時代でもないのに名前や顔も知らない兄弟・姉妹がいるんですよ。おかしいでしょう?」

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