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第9章 雪あかりに照らされた道10
頭がパニックになりそうだった。
うちの父はアルファだし、古風な考えをしている。有能なアルファのが世の中で活躍し、それをオメガがサポートするものだと思っている。
だがオメガである母を侮辱したことも、蔑んだことも一度だってない。あの人なりに母を愛し、尊重してきた。
それは子どもである、おれたち兄弟が知っている。
母が一番下の時雨を生み、これ以上は子が生めないという状態になっても父は母以外の女や男をそばに置かないし、目もくれない。
「浮気や不倫をする人間は畜生にすら劣る」とまで豪語している人だから。
「どうして若菜さんと、お父様が番になってしまったんでしょう。発情期による事故ですか?」
「違います……俺が、いけなかったんです。母が『あの男は容姿の整った若者ならバース性も構わず食い散らかす。特に人のものを奪うのが好きだ』と言っていたのに俺は、自分の父親がそんな人間だと思っていませんでした。価値観の違いで離婚を突きつけられた母が、俺を父に会わせないために嘘を言っているんだと、信じていたんです。
父から母への手紙や贈り物が、しょっちゅうあったので居場所は知っていました。学校の帰りに、こっそり父が顔を見に来ることも一年に五、六回はあって、誕生日やクリスマスにお菓子や、おもちゃのプレゼントをもらっていたんです。ガキだった俺は、そんな父のことが好きで長期の休みには、よく会いに行ってました」
「――お相手の方は、はな屋で働いていて、そこで先生のお父様と会ったんですね」
涙を堪えるように目を細めた先生が「そうです」と怒りをにじませながら率直に答えた。「俺のオメガだった竹 本 若菜さんは、おばと一緒に文芸部のサークルに所属していました。同じ栃木出身、おまけに隣町の出である彼と、おばは意気投合しました。若菜さんは東京で働くつもりだったんですが、男手ひとつで育ててくれたオメガの父親の具合が悪くなって、ベータの弟が高校へ進学するのをきっかけに栃木へ戻ってきたんです。子どものときからの夢だった幼稚園の先生になろうと採用試験を受けて不採用になってしまい、はな屋でアルバイトをしていました」
楠先生がお菓子が好きだ。洋菓子は、いろんな店で買うのに和菓子だけは、はな屋でしか買わない。どうして、あそこにこだわっているのか、なんではな屋のご夫婦とあんなにも親しげにしていたのか、その理由に納得する。
「学校の帰りに、はな屋に寄って若菜さんと話をする時間が好きでした。彼からしたら年の離れた俺は友だちの甥っ子で、小学生のガキでしかなかった。でも俺は本気で彼が好きだったんです。大人になったら彼と恋仲になって番になる夢を描いていました」
「でも、その夢は……叶わなかったんですね」
「俺が中学に上がる頃に突然、若菜さんは、はな屋を辞めてしまったんです。毎日まじめに働いて、『幼稚園の先生になる』ってがんばっていたのに『番ができた』と言って東京へ引っ越しました。おじさん、おばさんも戸惑ったし、俺や、おばも困惑しました。その頃からです。父が姿を現さなくなったのは……夏休みに部活動がない日を狙って、おばに頼み込んで若菜さんの住んでいるところへ連れて行ってもらいました。こじんまりした家の前に父の秘書がいたんです。おばはすぐに察して『帰ろう』と言ってくれたのに、俺は意固地になって『若菜さんに絶対会う』って言い張りました」
「先生」
もういいです、と言おうとした。
その先の展開は俺にも容易に予想できたから。
「家には、父とお腹の大きくなった若菜さんがいて、母の言っていたことは本当なんだと思い知らされました。もしも彼が幸せそうにしていれば諦めもついたのに……彼は父と一緒にいても、うれしそうじゃなかった。今まで見せてくれた、やわらかな笑顔は鳴りを潜め、能面みたいな顔をしていたんです。俺の姿を目にしたら、まるで判決を言い渡す裁判官を前にした犯罪者みたいに怯えていました。逆に父のほうはゲームに勝ち誇った子どもみたいな顔をして、『若菜の腹の中に、おまえの弟がいる』って」
「やめてください、先生……」
しかし彼は口を閉ざそうとはしなかった。憎しみに満ちた目で眼前を睨みつけながら、血管が浮き出るほどにハンドルを強く握りしめたのだ。
「ガキだった俺は若菜さんが父を誘惑したんだと勘違いして『あんたなんて大嫌いだ』って言ったんです。その後すぐに父が病気でコロッと亡くなり、母も後を追うように同じ病で、この世を去りました。喪に服していたら、おばから『若菜が自殺した』って告げられたんです。遺書も何もない状態で赤ん坊だけを残して首を吊っていたんです」
「赤ちゃんは、どうなったんですか?」
「若菜さんの父親が引き取って育てています。俺も、たまに兄 として会いに行ってます」
彼が死んだ理由はなんだろう? あらゆる可能性が考えられる。どれかひとつの決定的な理由があるわけじゃなく、おそらくさまざまなできごとが重なって彼の心を少しずつ死へ向かわせたのだろう。
もしかしたら先生や笹野さんですら知らない、彼にしかわからない悲しみや、つらさもあったはずだ。
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