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第10章 雪あかりに照らされた道11

 責任感の強い先生は魂の番であるオメガを追いつめてしまったと、事実を重く受け止めているのだ。  赤信号で車が止まる。白い車も、雪も、まるで血に染まったような色になった。 「俺が母の言葉を信じて、父の行いを疑っていれば、はな屋で彼と父が出くわすことはなかった。幼稚園で子どもたち相手に働きながら、父親の面倒や弟の時間を過ごしていたはずなんです。俺が彼の幸せを奪い、死に追いやった」 「先生、それは違います。ご自分を責めないでください」  どんな言葉を掛けていいのかわからず結局、人並みなことしか言えなかった。  自重気味な笑みを浮かべた楠先生は右側の窓へと顔を向ける。まるで隣にいる俺の顔を見たくない、声を聞きたくないと拒絶するように……。 「おばや若菜さんのお父さんからも同じことを言われました。でも、どうしても俺は自分を許せないんです。父親の本性にも気づかず、母親の忠告もろくに訊かなかった。そのせいで一番大切なものを最悪な形で失った。『大嫌い』なんて本当は思ってなかった。いつか、俺が彼の番になりたかったのに……父とそういうことをした若菜さんを『汚い』と思い、頭に血が上って罵ってしまったんです。それが最期に掛けた言葉になるなんて夢にも思わなかった」  信号が青に変わっても先生は車を発進しなかった。窓越しに後続車はなく、周りには人影すら見えない。  まるで深い水底に――魚も姿を見せなくなる海の底に、ふたりだけでいるような気分になる。  辛酸を嘗めさせられた彼の苦渋に満ちた顔が窓に反射して映っている。 「……桐生さんは若菜さんに似ていませんよ。ふたりとも全然、違います。顔形も、容姿も、仕草やにおい、性格だって、まったくの別人ですもしも似ているところがあるとしたら目つきでしょうか。若菜さんと最後に顔を合わせたときと、あなたと最初に出会ったときの目つきが、よく似ていた。何もかも諦め、己を顧みない、そんな眼差しをしていた」  若菜さんと似ていないと訊いて、ほっとするところなのに、なぜか少しだけ残念に思ってしまった。だって――先生は先輩に似ているところが、いくつもある。雰囲気や仕草、誰かのために仕事をしている姿や顔立ち、赤の他人とは思えない。遠い親戚ではないかと疑ってしまうくらいに似ているから。  おれは沈んだ気持ちでいながら若菜さんのことを考えた。きっと彼は、先生のお父さんの番にされ、子どもを妊娠したときから、そういう目つきをしたんだろう。  先生は確かに子どもだった。  でも若菜さんだって、楠先生に好意を寄せていたんじゃないかと思う。  若菜さんがどんな人なのかは知らなくても、魂の番と出会ったときのことならわかる。  まるで磁石のS極とN極のように惹かれずにはいられない。その人の容姿も、性格も、いいところも、悪いところもすべて引っくるめて愛さずにはいられないのだ。すべてが自分のために作られたのかと思うくらい魅力的で、一度目が合ってしまったらどうしようもなく離れがたい。失った後でも忘れがたい存在だ。  きっと待っていたのだろう。  魂の番であっても大人が未成年に手を出すのは犯罪だ。  八歳の差があるから、先生が大人になる日を、指折り数える見ず知らずのオメガのイメージが目に浮かぶ。 「だから、あんな小生意気なことを言えたんです。あなたがちょっと腕を怪我しただけでも心配になって、産後の肥立ちが悪かった若菜さんのことを思い出しました」 「あの言葉は、おれに掛けた言葉ではなく自分への戒めだったんですね」 「そうです……本当は、人に偉そうなことを言える立場じゃない。でもオメガであるあなたと若菜さんを重ねてしまった。あの人みたいに命を断つようなことは、してほしくなかったんです。あなたを生かし、笑顔にしても、罪を償えるわけじゃないのに……」  この人は今でも亡くなったオメガを忘れていない。今も彼のことを大切に思いながら日々、子どもたちの面倒を見ているのだ。  「利用したんですよ。自分が楽になるために、あなたの手助けをした」 「……先生は、それをおれに言って、どうしてほしいんですか?」 「えっ?」  困惑した声を彼は出し、おれのほうへと顔を向けた。おれたちの視線が交差する。  視界の隅で信号が黄色になり、また赤へと変わるのが見えた。 「もう、おれに近寄るな、話しかけるなと忠告をしているんでしょう? おれが、そばにいると、あなたの好きだった人を連想することになって、つらいですか……」 「違う、そういう意味じゃない!」と先生は声を荒げた。  怒りや憎しみ、恨みなどではなく、悲しみで胸が一杯になり、あふれてしまったような声色だ。先生の表情も、今にも壊れてしまいそうな硝子細工のようだ。  普通ならクラクションが鳴ってもおかしくない状況なのに世界は異様なくらい静かだ。 「だったら、どういう意味か教えてください。少なくとも、おれは、先生の言葉に救われました」 「……桐生さん?」 「愚かだな」とこの状況を()(かん)している、もうひとりのおれが言う。

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