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第10章 思わぬ客2
「今回は花音抜きで夫婦水入らず、ふたりだけの旅行をするんだよ。うちの両親も、志乃の両親も『孫の顔を、もうひとりは見たい』ってうるさいし、花音も『弟や妹がほしい〜』って最近やかましいんだ。オレも志乃とご無沙汰だし、だから、その……」
人差し指をチョンチョンくっつけては離す。唇をすぼめ、首まで赤くしている瞬の姿に頭が痛くなって天を仰いだ。
「おまえ、おれじゃなく、親戚やご両親に頼めなかったのか?」
「いや、うちのも、志乃んちの親も旅行中なんだよ。花音には、神奈川のいとこのうちに、二泊三日のお泊まりだって伝えてある」
「だったら……」
「そこんちの母親が病院に勤めていて急 遽 シフトの空きを埋めることになっちまったんだ。おまえだってデパートに勤めていたんだから、わかるだろ!?」
年末年始にインフルエンザや風邪になる人、葬式になってしまう人や、家族・親戚と出かけることになり、仕事をドタキャンする人間は必ずいた。おれも駆り出されて先輩とゆっくり過ごす予定が狂うことは、しょっちゅうあったから理解できる。
「だけど、いくらなんでも急すぎるだろ!? せめて前日の夜に電話してくれないと対応できない」
「いとこの親が今朝になって連絡して来たんだ。早番だから夕方には仕事が終わる。その後、新幹線に乗って夜の六時には、うちのほうに来る。それまでの間でいいから頼むよ。花音を預かってくれ!」
パンと柏手でも打つみたいに瞬は両手を合わせた。
本当のところ、別段、これといった予定はない。茶室で茶を点てる練習をして、後は一日家の中で読書をしているつもりだったから花音ちゃんひとりがいても、なんら問題はないのだ。
ただ、おれの家には何もない。幼稚園児の子どもからしたら、つまらないことこの上ない場所だ。おまけに正月で遊びに行けるところも、食事をとれるところも限られている。
「おれがまだ具合悪かったら、どうするつもりだったんだ?」
「その場合は、もうひとりあてがあったから」
「あて?」
誰のことだ? と訊こうとしたら、「ゲッ! やべえ」と瞬が自分の腕時計に目をやった。「とりあえず時間が押してる! 花音の保険証や、お薬手帳なんかはリュックに入れてある。食物アレルギーはないし、嫌いなものも特にない。犬・猫にも触れる。というわけで、よろしく!」
口早に言うと志乃さんが乗っているカーキ色のジープの運転席へ乗り込んだ。
慌ただしい友人を追いかけ、雪が溶けてなくなった道路へ出る。
「おい、瞬!」
「旅館を当日キャンセルしたら、ふたりぶんの予約金が全額パアだ。万単位の金をドブに捨てたくない! 温泉まんじゅうでも楽しみにしててくれ」
そうして朝霧夫妻は、おれと花音ちゃんを残し、デートへ行ってしまったのである。
やれやれ、どうしたものだろうと家の中に戻り、お節料理の入ったお重をこたつ机の上に置き、みかんの皮をゴミ箱へ捨てている花音ちゃんを見つめる。
「薫ちゃん、おかえりなさい」とおままごとをやっているときと同じ笑顔で迎えてくれた。
「……ああ、ただいま。寒くない?」
ストーブの温度を上げ、やかんの湯を沸かしにキッチンへ立つ。
リュックからクレヨンの箱とA5サイズの自由帳を取り出し、ファーコートを脱いだ花音ちゃんが「大丈夫よ」と返事をしてキッチンのほうに駆けてくる。「子どもは風の子って幼稚園の先生も言ってたし、花音、じいじとばあばの家で寒いのには慣れているの」
黄色いたんぽぽの花のような笑顔が、かわらいらしい。
「手洗いうがいはできる?」
「うん!」と彼女は慣れた手つきでステップ台を用意して、洗面台の蛇口をひねった。石鹸の泡をモコモコにして手を洗い始める。
「あー、楽しみだなー! パパとママが帰ってきたら、花音にも兄弟ができるかもしれないんだよ、薫ちゃん。花音、お姉ちゃんになれるかなあ!?」
はははと乾いた笑い声が出てしまうのを誤魔化し、餅をオーブントースターの中に突っ込み、お汁粉用の小豆が入った鍋に火を通す。
「花音ちゃんは弟と妹、どっちが来てくれるとうれしい?」
「妹! おままごとも、お人形さん遊びもできるし、大きくなったら一緒におめかししたり、お揃いのスカートやワンピースが着れるもん」
「なるほどな。ところで朝ご飯は、もう食べた?」
「お雑煮をちょっとだけ。薫ちゃんと、お じ ち ゃ ん と一緒にお昼を食べるから、朝は少しにしなさいってママが言ってたの」
「おじちゃん? おじちゃんって、誰のことかな?」
なんだか、いやな予感がする。
スカートのポケットに入れてあった水色のミニタオルで手を拭きながら花音ちゃんが口を開いた。
「それは――……」
玄関のチャイムが鳴る。
玄関の戸を開ければ、そこには気難しい顔をした楠先生が立っていた。
「先生!」
「……あけましておめでとうございます」
「あっ、おめでとうございます。どうして、ここに……?」
恐る恐る尋ねると口元をもごつかせた先生が横目のまま答えた。
「朝霧さんから花音の面倒を見るよう頼まれたんです。桐生さんは先日、誘発剤を打たれたばかりで急変するかもしれない。何かあったとき、花音ひとりじゃ救急車を呼ぶのは大変だって」
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