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第10章 思わぬ客4
大切な人を失った過去があるから、おれたちは出会い、今、同じときを過ごしている。
子犬がじゃれあうように、言い合いをしているふたりの姿を目に焼きつけ、キッチンへ戻った。
「先生、お汁粉は好きですよね? 食べます?」
ぐるんと首をこちらに曲げた先生は満面の笑みを浮かべた。
「もちろんです。ぜひ、お願いします!」
「では花音ちゃんと少し遊びながら待っていてくださいね」
木の椀を三つ出し、自分用に焼いた二枚の餅を一枚、先生のぶんとしてわける。温まった小豆汁を上からかけ、くるみを散らし、箸休め用の塩昆布を小皿に入れる。お客様用の割り箸をつけ、お盆で運ぶ。
「あー、お汁粉ー!」
画用紙に描いてあるものを楠先生に見せていた花音ちゃんが顔をほころばせる。
「熱いから少し冷ましてから食べてね。お餅を喉につっかえたら大変だから、ゆっくり食べるんだよ」
「うん! ありがとう、薫ちゃん」
「おれはお茶を点ててくるから、ふたりで先に食べてて」
「抹茶って茶室以外でも点てられるんですか!?」と突然、先生が驚愕する。まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「ええ、できますよ。流派によっては邪道だと言う方もいますが、家元である母が、海外からやって来た日本好きな方や、正座が苦手だけど昔から長い歴史があるものに触れたいと好奇心旺盛な子どもにも飲んでもらえるお茶を出すがモットーな人なので、おれも見習っているんです。それに和食レストランでや茶室のない美術館や博物館でも抹茶を飲めるでしょう?」
「確かに言われてみれば、そうですね」
うんうんとうなずいている先生を見ていたら、花音ちゃんが長方形の箱をどこからか持ってきた。
「薫ちゃん、このきれいなカルタ、何? 女の人たち変わった着物を着てるよ」
「ああ、それはかるたじゃなくて百人一首だよ」
「なあに、それ」
「平安時代の貴族が読んだ和歌――昔の五七五だ。百人ぶんの歌が書かれているんだ」
これは、おれが説明するよりも古文の先生のほうが得意だろうと「大和おじちゃんに訊いてご覧」と話を振る。
きっと、いつものようにイキイキとした様子で楽しそうに話すのだろうと微笑ましく思っていれば、先生はほうけた顔をして、こちらを見ていた。
「楠先生、どうしたんですか?」
はっと意識を取り戻した彼は「いえ、なんでもありません」と顔を横に向けた。「開けても大丈夫ですか?」
「いいですよ。子どもの頃、古文の授業で使ったものですから。花音ちゃんにも見せてあげてください。それじゃあ、おれはキッチンに戻りますね」
梅の花が正面に書かれた子ども用の一回り小さい白地のお椀と、いつもおれが使っている竹の絵が書かれた椀、それから母に成人式のお祝いとしてもらった茶碗の中から松が書かれたものを選び、三人分のお茶を点てた。
先生と花音ちゃんは、まだお汁粉に口をつけておらず百人一首の札を真剣な顔をして見ている。
お汁粉の隣に抹茶椀を置いて、ふたりに声を掛ける。
「集中しているところをお邪魔してすみませんが一旦、切り上げて、食べましょう」
「ああ、すみません。桐生さん。花音、百人一首を片づけろ。汚したら大変だ」
「わかってるよ、おじちゃん。薫ちゃん、お抹茶、いいにおーい」
「それじゃあ、食べよう」
いただきますの挨拶をして焼いてふくらんだお餅を食べ、お茶を飲んだ。
瞬や志乃さんが花音ちゃんと一緒に家へやってきて、お茶を飲むことはよくある光景だ。
しかし、こうやって先生が家にやってきたのは初めてのこと。花音ちゃんがいてくれなければ、きっと心臓がドキドキしっぱなしで一日保たなかったことは容易に想像がつく。
お茶を飲みながら、どうやって六時頃まで花音ちゃんを退屈させないようにしようかと計画を立てる。三人で百人一首を夜までやるのでは途中であきてしまうだろうし、トランプやすごろく、人生ゲームなどの類はない。テレビもないし、スマホゲームを一日やらせるのは、あまり瞬や志乃さんがいい顔をしないだろう。
夜になったら慣れない電車に乗って神奈川へ行くのだから、あまり疲れさせてはいけない。かといって食べさせてばかりいては正月太りも起こして健康に悪いし、何かいい案はないだろうか……。
「ねえ、薫ちゃん。お昼はママのお節を食べるけど、この後どうするの?」と右横でお箸を持っている花音ちゃんに訊かれ、答えに窮してしまう。
「動物園はどうだ、花音」
「動物園?」
おれと花音ちゃんは先生の提案にオウム返しをする。
「そうだ、年末年始も営業していて冬は入場料が安い。花音も猫や狼、アルパカやカピバラ、レッサーパンダを見たいだろ?」
幼稚園の遠足で行った動物園の話を何回もしていた花音ちゃんは箸を置くと「行く! おじちゃん、連れて行って!」と先生の腕を掴んで、せがんだ。
「ああ、いいぞ。桐生さんも構いませんよね」
「もちろんです。行きましょう」
「やったー!」
観光地の多い場所だが、実際は高校と家の往復ばかり。休みの日も、もっぱら食品の買い出しや図書館、本屋に通い、まれに服の入れ替えで新しく洋服を購入するだけ。ニュースで取り上げられ、SNSでも話題になっている動物園に行けることに心が踊った。
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