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第11章 生き物3

 花音ちゃんの爆弾発言を楠先生が丸く収めてくれた後も、閉園時間ギリギリまでいた。  幸せそうに後部座席で眠っている花音ちゃんの寝顔を見る。赤ちゃんだったときと同じ顔をして寝ているなと思い出し笑いをしてしまう。  大人と比べて小さい身体をしているのに、自発的にものごとを考え、父親や母親のまねをして動いているのだから不思議だ。  生まれてすぐの頃は、小さなろうそくにともる火のようで、冷たい北風に吹かれたらあっという間に消えてしまうんじゃないかと気が気でなかった。それが今では、こんなに大きく育ち、まだまだ成長するというのだから生命は神秘だ。 「花音ちゃん、寝ちゃいましたね」 「そうだな。ずいぶん、はしゃいでいたから疲れたんだろう」  真顔のまま運転する先生の横顔を見つめる。今日一日、なんだか、様子がおかしい。  動物園に行くと言い出したのは先生だったけど、おれや花音ちゃんと一緒に来たのは間違いだったと思っているのだろうか……? 「先生、動物園は、つまらなかったですか。それとも、おれや花音ちゃんがいては邪魔でしたか」 「どうしたんですか、突然?」 「なんだか先生、ずっと怒っているみたいな顔をしていたので」 「べつに怒っていませんよ。動物園に誘ったのも俺です。俺だって、花音や桐生さんと一緒に出かけられて、楽しかったですよ」  なんだか、体よくはぐらかされているような気がしてしまうのは、おれの考えすぎなのだろうか。のどに魚の小骨が刺さったような不快感を味わう。 「だったら、どうして花音ちゃんに対して、きつい言葉を言ったんですか? 確かに花音ちゃんも先生に対して小生意気なことばかり口にしていました。でも高校の生徒たちを見ているときよりも、もっと厳しい感じがしたんです。まだ小さい子どもなんですよ。もう少し、やさしくしてあげてください」 「――桐生さんが、魂の番であるアルファを好きなのに、ちょっかいを出すからですよ」  ボソッと小声で先生がしゃべった。  聞き捨てならない内容だったので、「どういうことでしょう?」と追求する。眉をひそめ、彼の横顔を注意深く観察する。  気難しい顔をした先生が口から意図的に息を吐いた。 「魂の番であるアルファとオメガは、狼の番のように生涯の伴侶にあたります。魂の番に出会えた者は浮気もしなければ、ほかの者を求めたりもしない。誰もが羨むような強い心のつながりを持ったカップルになります。それなのに花音は桐生さんを好きでいる。そっと胸の内に潜ませておけばいいものを、自分のことばかり考えて、あなたの気持ちをちっとも考えようとしない。『好き』って気持ちを一方的に押しつけて自己中心的に振る舞っていました。だから許せないんです」  もしかして若菜さんとのことや、お父様のことを思い出して、つらい気持ちになってしまったのだろうか?  だとしても、それはそれ、これはこれだ。  幼稚園児の花音ちゃんには、先生が言いたいことはまだ理解できる年頃ではないし、感情をそんなにコントロールできないと思う。  子どもを導く教師であり、教育学を学んできた人の発言かと耳を疑ってしまう。  いつも誤解を受けそうな発言をしていて本当の意味を理解するのに時間が掛かる。ときには人の神経を逆撫でして怒らせてしまうような発言をする。だとしても今の言葉は、いつもの先生らしくない。 「相手は小学生未満の子どもです。いつも一緒にいるママやパパが出かけてしまって、自分は県外のいとこの家へ預けられる。だから、きっと、さびしくなってしまったんですよ」 「甘いですね、桐生さん」と先生が皮肉な笑みを浮かべる。「親が目の前からいなくなって、俺に八つ当たりしたり、あなたに甘えていたんじゃない。花音は、あなたに恋してる。あれはオメガであるあなたを取られると思って、アルファである俺を牽制していたんですよ」 「恋してるなんて大げさな……」  突飛な彼の主張に半笑いしながら幼い少女のための弁明をする。 「花音ちゃんの周りには、あまり高校生や大学生の年上の男がいません。父親の瞬は花音ちゃんのことを大切にしていますが怒るときは本気で怒るので、花音ちゃんが志乃さんや俺に泣きついてくることは、しょっちゅうです。赤ちゃんのときから彼女のことは知っています。自分の子どもでもないのにかわいかった。番が亡くなった後、瞬と志乃さんが、あの子を連れて顔を見せに来てくれるときだけ、悲しいことも、つらいこともすべて忘れられて、ほっとしたんです」  冷気を感じる窓に顔をやり、薄暗くなってきた外の風景を眺めた。  冷たい指先でへその下へと手をあてる。  もしも、おれにも若菜さんのように子どもがいたら、どうしていたんだろう? あのマンションにいることは不可能だから、どこかべつの場所へ身を移したはず。東京のアパートに住んだのか、それとも今いる場所にいたのか。こうやって楠先生と出会って、今と同じように恋に落ちていたのか、それとも彼を好きになることがもなかったのか……と、とりとめのないことを考える。

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