59 / 102

第12章 願い1

 家に帰ってきても花音ちゃんは眠りが深いのか起きてくれなかった。  結局、先生が、彼女をお姫様抱っこして、おれの家まで運んでくれたのだ。客間に来客用の布団を敷いて寝かせた。  そのまま先生は帰ってしまうのかと思ったが、以外にも彼は「花音を見送る」と、その場に残ったのである。  おれたちはブラックコーヒーを飲みながら、それぞれ時間をつぶしていた。  先生はカバンに入れてあった文庫本サイズの小説を読み、おれは茶色い紙のブックカバーが掛けられた『源氏物語』の現代語訳されたものを眺めていた。  砂糖の入った甘いカフェラテや、生クリームをしぼって入れたロイヤルミルクティーを用意しようとした。  だが――「桐生さんと同じミルクと砂糖なしのコーヒーをお願いします」と頼まれたのだ。甘いものが好きとはいえ、抹茶も好むのだから、おかしな話ではない。  ただ、おれが逃げたかったのだ。  抹茶を点てるときのように精神統一ができないのなら、少しでも時間を掛けて重苦しい空気を緩和したかった。甘いものを口に含めば、先生も今朝みたいに、やわらかな笑みを見せてくれるのではないかと余計なことを考えた。  夜の六時を過ぎると家のチャイムが鳴る。ドアを開ければ、瞬にどことなく雰囲気の似た初老の女性が立っていた。家に上がってもらい、花音ちゃんを起こす。 「あれー、おばさんだ。もう六時ぃ?」  大きなあくびをしながら目を擦る彼女の寝癖がついた髪をさっと整え、ポシェットの入ったリュックを背負わせる。 「いろいろとお世話になりました。おふたりには、ご面倒をお掛けして。身内でもないのに、ありがとうございました」と女性が頭を下げる。 「とんでもありません。おれたちも楽しい時間を過ごせましたから。お仕事が急に入ったら仕方ありませんよ。それじゃあ、またね、花音ちゃん」 「バイバイ、薫ちゃん。大和おじちゃんも」  寝ぼけ眼で小さな手を振る彼女に手を振り返す。 「寝ぼけながら歩くなよ。ちゃんと足元見るんだぞ」  隣に立つ先生とともに、彼女たちが車に乗って、通り過ぎるのを見送った。  しんと辺りが静まり返って、なんだかさびしい気持ちになる。  先生も、瞬に花音ちゃんの面倒を頼まれただけだ。用がなくなったのだから帰ってしまう。  モヤモヤと晴れない気分のまま三学期の始業式まで会えないのは、なんだかいやなのに、話すきっかけが思いつかない。  「以前、桐生さんは、おれに借りを作りましたよね」 「へっ?」  突然、話を振られたので、間抜けな声を出してしまった。すぐに車の送迎をしてもらうきっかけのことだと気がつく。 「そうですね。まだ、ちゃんと返していませんよね」 「はい、そうです。今、ここで返していただけないでしょうか?」  借りを返して、これっきりの仲にしましょうというわけでもないはずだから、頭が混乱してしまう。 「と、言いますと……」 「そばです。そばを食べに行きましょう」  まさかの発言に言葉をなくしてしまう。 「そばって、おそばですよね? お夕飯をおごればいいということでしょうか」 「違います。あなたに無心しているわけではありません。ただ、そばを一緒に食べに行きたいんです」 「それじゃ、おれが借りを返すことにはなりませんよ。それに、なんでおそばなんですか」  ただ夕食を一緒にとるだけでも、おれにとってはデートみたいなもので、願ったり叶ったりの状況だ。  だけど、それじゃ先生の貴重な時間をとってしまうだけだろう。  すでに花音ちゃんを朝から動物園に連れていって、その後も迎えが来るまで、つきあわせてしまったんどあ。なんで、そんなことを提案するのだろうと当惑するしかない。  先生は先生で、本当に言いたいことを言葉にできていないともどかしく思っているのか、頭をガシガシと乱暴に掻いた。 「あなたの言ったことが離れなくて仕事も、ぜんぜん進みませんでした。誘発剤を打たれた後も心配だったけどLIMEで、どんな返事を書いたらいいかわかりませんでした。おばさんが『桐生さん、元気にしていたよ』って連絡してくれたけど、実際に自分の目で見ないと、すっきりしないし。気がついたら新年になっていました。年越しそばも食いっぱぐれて、おせちの準備もできなかった。昼も、夜もずっと、あなたのことばかり考えて、何も手につかなくなってしまったんです」 「そ、そうだったんですね」  四六時中、先生がおれのことを考えていた? そう思っただけで鼓動が速くなり、頬がほてり始める。  彼の心には若菜さんという人がいる。この先も、ずっと楠先生の一番好きな人だ。  それでも数日間、彼の頭や心の中にいられた事実に胸が、ときめいてしまうのを許してほしい。 「だから責任をとって、あなたの大切な時間をおれにもください」  ヤケクソ気味にがなり、視線をせわしなく左右にやる。寒い外にいるからか、かすかに頬が赤くなっている。  そんな彼に、つい見とれてしまった。 「……やっぱり、いや、ですよね? そんなに親しくもない男と食べに行くなんて」  口元を引きつらせ、無理に作り笑いをする。  いつまで経っても返事をしなかったので、どうやって断ろうか考えているのだと結論づけてしまったのだ。

ともだちにシェアしよう!