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第12章 願い2
気がついたら身を乗り出し、食い気味な様子で返事をしていた。
「いやじゃありません。すごくうれしいです!」
「本当ですか?」
神妙な面持ちの楠先生を前にして、これじゃ好きですって露骨にアピールしているようなものだと落ち着きを取り戻す。
「はい、本当です。笹野さんや鈴木さん、館長を始めとした図書館の皆さんと、お食事をしたことはありましたが先生とは、今日が初めてでした。でも、あまり話すことができなかったので、もっとお話ししたいなって思っていたんです」
「それなら、よかった」
そうして、おれたちは通常のそばを食べに行くことにしたのだ。
三が日まで休むお店も多いが朝霧一家の通いの店であるおそば屋さんは休まず営業しているとネットでの情報を得て、向かった。
のれんをくぐり、店内へ入るとダシのいいにおいが、ふわっとする。店内には元旦に事情がありお参りできなかったお客さんや、サービス業で働いてきてクタクタになっている人たちで、あふれかえっていた。
空いている席を案内してもらい、メニュー表を見て、先生は天ぷらそばとデザートにそばがきぜんざいを、おれはきのこと鶏肉のそばとだし巻き玉子を頼んだ。
「朝霧一家から、ここのそば屋さんがおいしいって聞いたんです。先生は、ここで食べたことはありますか?」
「いえ、初めてです。朝霧さんから、お話を聞いていたもののなかなか来れなくて、今日やっと来れました」
「皆さん、おいしそうに食べているから楽しみですね。そうだ、最近、先生の影響を受けて『源氏物語』の和訳本を読み始めたんですよ」
古文の話をすると先生は、少年のように目を輝かせた。
「そうなんですか! じゃあ、さっき読んでたのも」
「はい、『源氏物語』です」
「どうですか、読んだ感想は」
「まだ読み始めたばかりですが光源氏や、その周辺の男性たちは、まるでアルファみたいですね。香りもよくて容姿もいい、上に立つ人間ですから。逆に女性は、なんだかおれたち、オメガと似ているなって思いました。好きな人の一番であれるかどうかをあれこれ悩んで、後ろ盾である家族や恋人・夫がいなくなることに怯え、それから――」
襲われてしまう。
たとえ、抱かれるのがいやだと思っても自分より上の存在には逆らえない。
これが前世からの宿命、運命だからと受け入れなくてはいけないと思って泣く登場人物が多い気がする。
「あれは平安時代がどういう時代だったかがわかる貴重な文献であると同時に、当時の貴族の女たちの悲しみが、ふんだんに書かれていると考えられています」
話の最中に、だし巻き玉子が先にやってきた。
机の隅に置いてある箸箱から割り箸を出し、すり下ろし大根にしょう油をつけ、ふたりで食べる。
「ハッピーエンドで、みんなで大団円な話ではありません。人々の不幸や悲しみが書かれています。人公である光源氏も順風満帆な人生じゃないし、初恋の相手である藤壺を忘れられなくて幼い紫の上を手元に置いたのも、藤壺の親戚である彼女に面影を見たからです」
「そうなんですね。先生、先生は、どうして高校の古文の先生になることを決意したんですか?」
若菜さんは幼稚園の先生を目指したのに、先生は高校の古文の教師だ。
おまけに、あの物語は一夫多妻制の話だ。先生が自分の父親や母親たちの姿を思い出して、いやな気持ちになるはず。それなのに、なんで古文の先生になったのだろう。
そんなことを考えていれば、そばがやってきた。食欲をそそるそばの香り高いにおいがする。食事の挨拶をして、すすれば、コシがある細麺が、あっさりめのそばつゆと絡んで絶品だ。
「あの物語に出てくる女たちに母や若菜さんの姿を重ね、光源氏が父親だったら、よかったって思ったんです」
「どういうことですか?」
海老天をかじりながら先生がそばをすする。
「彼は、手を出した女たちの面倒を全員見ます。容姿が劣っていようと、後ろ盾がなかろうと、自分が抱いた女を見捨てたりはしません。実子も大切に育てています。でも、うちの父親は手を出した人間をいちいち覚えてないし、面倒も見ません。若菜さんも、おれへのあてつけで最初は囲っていたけど彼が子どもを生んだら、遊びあきたおもちゃに見向きしない子どもと同じです。
気に入った子どもにはたまにプレゼントを渡したり、顔を見に来るけど父親らしいことは何ひとつしません。毎日働いている母がいなくてさびしかったり、片親であるといじめられていたので、本の世界が救いでした。奨学金をもらえて実家からも近い北条高校に行くことになったんです。先生方は片親である俺にわけ隔てなく、よくしてくれました。古文の授業が一番好きだったし、得意だったので教育実習生として実技をこなし、OBとして帰ってくることにしたんです」
「そういう理由があったんですね」
「成り行きでなったようなところが大きいですけど」と自嘲気味な笑みを浮かべ、彼はさつまいもの天ぷらをかじった。
おいしいしそばを完食し(先生はそばがきぜんざいも平らげてしまった)、お腹がいっぱいになって身体も温まった状態で店を出る。
近くの神社から和楽器の音や鐘をつく音がする。
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