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第13章 恋の媚薬7
先生が隣に座り、「どうですか?」と尋ねた。
「とてもおいしいです」
「俺が一番好きなケーキ屋で買ってきたものなんです。紅茶もお気に入りのものにしました」
猫を見ることをきっかけに、好きな人の家に来て、彼が好きなものを共有できる。なんて幸せな時間だろう。
「あの……先生」
「どうかしました?」
床に置いてあったカバンの中から紙袋を出し、先生に渡す。
「これは……」
「チョコです」
「えっ?」
「おれも、お礼として用意していました。でもチョコが嫌いという話を聞いて渡すのを尻込みしちゃったんです。家に帰ったら食べようと思ってました」
きょとんとした顔をしてから先生は紙袋をじっと見つめ、再度おれのほうへ目線をやった。
「開けてもいいですか?」
「もちろんです、どうぞ」
すると先生は丁寧に梱包用の包みを取り去り、箱を開ける。中身はチョコレートのアソートだった。四角や丸といったメジャーな形以外にも貝殻や花、葉の形をしたものが詰まっている。目でも楽しめて華やかだ。
丸形のチョコをつまんで先生は口へ運んだ。瞬間、顔を歪ませた。
「先生?」
「いえ、お酒がきいていて大人の味ですね。桐生さんも」
「いいんですか」
「はい、食べてみてください」
ミルクティーを口に含んでいる先生を横目にコスモスの形をしたものを手に取る。固めのチョコを噛めばオレンジリキュールが中からあふれた。カカオの苦みとオレンジの酸味を感じ、シトラスの爽やかな香りがすっと鼻を通る。
「本当ですね。でも、これじゃ運転はできないですよね。ごめんなさい」
まさかアルコールの入ったチョコだとは気づかなかった。もっとよく成分表示を見て買えばよかったと反省する。
先生はふたつめのちょこを口に入れ、「いいんです」と答える。「これはこれで、すごくおいしいですから。飲酒もここ最近できていなかったので、ありがたいです。ただ、申し訳ありませんが帰りは車でお送りできないで、タクシーをお願いします」
「そうします」
ベータだったら男同士で泊まらせてもらえたのかもしれないけど、おれはオメガで先生はアルファだ。
発情状態で先生と一夜をともにしてしまったら、よほど強靭な精神がない限りうなじを噛まれ、番になってしまう。その状態で発情期間中に何日も彼と性行為を行え、ば二分の一の確立で先生の子を妊娠する。
そんなことになったら彼は自分を責めるだろう。おれや子どもの顔を見るたびに罪悪感を覚えるはず。
「すみません、ちょっとお手洗いをお借りしますね」
ノワールを床に下ろして立ち上がる。
「どうぞ。玄関を入ってすぐのところにあります」
ドアを閉め、廊下を歩いていく。
「あれ?」
玄関の両脇に、それぞれ扉がある。鏡合わせにしたみたいに同じ位置にあり、どちらがトイレなのか、わからない。
「こっちかな?」
右のドアを開き、電気をつけると書斎だった。
はずれかと思いながらドアを閉めようとしたところでカタンと何か物音がする。机の上に置かれている写真立てが倒れてしまったのだ。勝手に入るのはよくないと思いつつ、写真立てを倒したままでもいるのも、なんだか気持ち悪い。
「失礼しまーす」
小声で言って、ささっと中へ入った。
写真立てを手に取る。そこには小学生だった頃の先生と大学生の笹野さん、先生によく似た女の人が映っていた。先生の隣には「美人薄命」という言葉が似合いそうな、中性的ではかない雰囲気をした男の人が映っている。
「この人が先生のお母様と若菜さん」
食い入るように写真を見つめた。
きゅっと唇を噛みしめ、写真立てを机の上に立て直し、ドアを後ろ手に閉める。
「……本当におれとは、ぜんぜん違う人なんだな」
そのまま反対側のドアを開け、右の扉を開いて用を足した。
洗面所で手を洗っているとポケットに入れてあったスマホが鳴り始め、画面に瞬の名前が表示される。
蛇口を締め、ハンカチで手を拭いてからスマホの画面をタップする。
「どうした、瞬」
『おい、薫。おまえ、どこにいるんだ? 花音が、おまえにチョコをあげたいのに家にいないって大泣きして大変なんだよ!?』
「今、先生の家にいるが」
『楠先生のうちだと!?』と怒鳴り声が耳元からして、すかさずスマホを耳から遠ざけた。
「ああ、ふたりでお茶をしながらチョコを食べている」
『薫、先生と交際を始めたのか?』
親友の発言に心底あきれながら「そんなわけがないだろう」と答える。が――『薫ちゃんの浮気者ー! 大和おじちゃんのバカー、嫌い、嫌い、大っ嫌い!』
大声で喚く声とえんえん泣く声に耳がキーンとして痛くなる。
これじゃアパートの騒音問題になって先生が壁ドンされてしまうと急いで音量を下げた。
それにもかかわらず『花音、いい加減にしなさい! 薫さんは、あなたの恋人じゃないし、赤ちゃんのときから遊んでくれている大和くんに対して、なんてことを言うの!』と珍しくどすの利いた声を出し、娘を叱りつけている志乃さんの声まで聞こえてきた。
「志乃さんのご両親は不在なのか?」
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