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第13章 恋の媚薬8

『ああ、お義父さんは長野へ出張。お義母さんは同級生と同窓会で福島だ。収集がつかない! 悪いが、とりあえず帰ってきてくれないか? このままじゃ志乃が噴火して、オレまで巻き込まれる』  まだ、こっちへ来て間もない頃、朝霧家で朝夕のご飯をいただいていた頃、花音ちゃんはおれにベッタリくっついていた。  両親は共働きで祖父母に面倒を見てもらうのが多い。子ども同士で遊ぶこともあるが瞬や志乃さんが厳しいため、子どもだけで遊ぶ機会は少なく、兄弟もいないのだ。  当時は、おれを年の離れた兄や父親代わりにしているのだと楽観的に考えていた。  しかし彼女は、風呂に入るのも、寝るのもおれと一緒がいいとわがままを言って泣き出したのだ。  オメガといえど男。子宮や卵巣が女性のようにあり、妊娠できる身体だが男性器もついている。たとえ同性愛者で、魂の番であるアルファと過去に番っていたオメガであり、幼女に食指が動く人間じゃなくても世間の目は厳しい。  最初は瞬が叱って、その場を諌めようとしたが、ますます大泣きするばかり。(らち)が明かないと放っておいたら、夜中にこっそり家を抜け出してパジャマ姿のまま、朝霧家の近所であるうちを訪ねてきたのだ。 「押しかけ女房よ」なんて、どこで知ったのかわからないセリフを口にし、一睡も眠らないまま我が家に居座っていた。  仕方なく朝霧家へ連絡をとったら、普段なら温厚な志乃さんが烈火のごとく怒り出した。 「勝手に家を出ていった挙げ句、深夜に人様の家へ押しかけるなんて、何を考えてるの!? わがままを言うのもいい加減にしなさい!」とジタバタ暴れる娘を抱えて家まで帰っていったのを思い出す。 「わかった。どっちにしろ、そろそろお暇しようと思っていたところだから帰るよ」  今日は平日だ。長居したら先生の仕事を邪魔し、支障を来してしまう。  電話を切ってポケットに入れようとしたらピコンと音が鳴る。 「今度はなんだ?」  笹野さんからLIMEだった。  シフトの調整の相談か? と画面を開く。 『大和くんにチョコを渡すときはアルコールの入ってないのにしてね。あの子、お酒てんで駄目なだから。一口飲んだだけでベロンベロンに酔っ払う下戸なのよ。そこだけ気をつけてね』という言葉と親指を立てているくまのキャラクターのスタンプが押されていた。  もっと前に言ってくれよ! と内心ツッコミながらありがとうのスタンプを押し、リビングへ戻る。 「先生!」  背広とネクタイをソファへ乱雑に放り投げ、第三ボタンまでワイシャツのボタンを外した状態でぐでっと伸びている楠先生がいた。  遅かったかと顔に手をあてる。急いでキッチンへ戻り、食器棚からコップを拝借して水を入れる。  机の周りで追いかけっこをし、床の上でじゃれ合うブランとノワールをよけながら、先生のそばに立つ。肩を揺さぶりながら呼びかけると、目を開け、おもむろに顔を上げる。全身、ゆでダコみたいに真っ赤で目も虚ろだ。 「……桐生さん」 「すみません、先生。お酒入りのチョコ、駄目だったんですね。気づかなくて本当にごめんなさい」  さっき変な顔をしていたのはアルコールに気づいたからだ。チョコを買ってきたおれに悪いと思い、無理をして食べたのだろう。 「お水です。ゆっくり飲んでください」  水の入ったコップを手渡す。  気だるそうな様子で先生は受け取り、一気飲みをした。  もっと親しい仲なら夕飯を作って介抱することもできたが、あくまでおれたちは友だちではなく仕事仲間で、おまけにどちらも恋人や番のいない結婚適齢期のアルファとオメガ。ご近所さんの目だってある。 「見知らぬオメガの男が楠さんの部屋で一夜を過ごした」なんて話になれば先生だって困るだろうし、若菜さんを思っているのだから傷つくだろう。 「どこへ行くんです?」  コップを机の上に置いた先生に訊かれる。  おれはコートとマフラー、床に置いてあったカバンを手にして帰り支度をする。 「そろそろ夕食どきでしょう。先生もお仕事があるでしょうから、お暇させていただきますね。酔いがさめたら、ちゃんと食事をとってくださいね。それじゃあ」  背を向けた瞬間、金縛りにあったみたいに身体が動かなくなる。気がついたら先生に抱きしめられていたからだ。 「……行かないでください」  懇願するような切ない声で請われ、心臓が大きな音を立てる。  すぐに冷静さを取り戻し、相手は酔っ払いだと自らに言い聞かせる。 「先生、酔っているんですね」 「酔ってなんかいません」 「酔っ払いはみんな、そう言うんですよ」 「……どうして、そんなにつれないんですか」と腕の力が強くなる。「あなたもおれと同じ気持ちでしょう? おれは、ずっと、こうしたかったのに」  彼が学校の飲み会に一度も参加しなかったのは、酔いグセが悪いのが原因かと内心、ため息をついた。  酔うとほかの人間が若菜さんに見えてしまうのだろう。それだけ彼に会いたい気持ちが今でも強いのだ。  鎖骨のあたりで交差している手をどけ、身体の向きを変えた。 「抱きつきたいのなら、やわらかくてモフモフなブランとノワールにしてくださいね。それじゃあ、また明日」

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