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第15章 破綻1

 卒業式の日以来、先生を避けている。  車で送迎してもらうこともなくなり、一緒に食事もとりにいかなくなった。何よりLIMEを送る回数がめっきり減った。  仕事は通常通りに、こなしている。  ただ司書の仕事をしていると笹野さんや鈴木さんから「何かあったのか」と尋ねられ、瞬からは「楠先生と喧嘩したのか?」と訊かれた。  べつにあからさまに無視をしているわけではない。  挨拶もしているし、会話もする。仕事情の相談だって行っている。  先生は何も悪くない。あくまでも、これは、おれの問題だ。  叶わぬ恋をしても意味はないと諦めるための冷却期間。  先生への恋愛感情がなくなれば、前のように接することも、若菜さんの話を聞いて寄り添うことも、同じ兄という立場として弟くんの話を聞くことだってできる。だから一分一秒でも、この思いを手放して昇華しなくてはならない。  魂の番である先輩をあんなに愛していたのに、いつの間にか先生を好きになっていた。  でも――今なら違うと言い切れる。  答えは単純明快だ。先輩のいないさびしさに堪えられなくなって心が弱くなっていたところに、彼と雰囲気がよく似た先生が現れ、恋に落ちたと錯覚したのだ。  花音ちゃんみたいな子どもだって先生と先輩が、どこかしら似ていると言う。  先輩が亡くなって病気にもかかって精神的に参っていたおれは、彼とよく似た人に惹かれた。それだけの話――だというのに、どうしてこんなに頭がぼうっとして、やる気が起きないのだろう、と目の前の一ページも進んでいない見開き状態の本を見つめる。  スギ花粉が今年もひどいとネットニュースに書かれていた。  いつも出してもらっている薬を飲んで症状を抑えようとしたが、あまり効かない。  医師や薬剤師に相談して、さらに強い薬を出してもらったから副作用で眠気が出ているのかもしれないと額に手をあてる。  ふと白檀の香りがして仏壇のほうへ目線をやる。花瓶に活けてある桜の枝を眺めて、机の上にひじをついた。  そういえば卒業式の前日に「四月は公園に行って茶会をしたいです」とLIMEにメッセージを送ってきたことを、ふと思い出す。 「でも風が吹いたら花粉症がひどくなりますよ」なんて、かわいげのない返事をしたら、「では桐生さんの家の離れにある茶室でお茶を点てていただけませんか? 俺が桜の枝や桜餅、春にちなんだ和菓子を準備しますから」と返ってきたのだ。 「わかりました。後で日程について話しましょう!」  すぐに了承したくせに予定は、入学式が終わり、新一年生の授業が始まった現在も立っていない。  図書館や茶室で顔を合わせたとき、いつも感情を押し殺して先生に接している。じゃないと彼と話をして食事をする時間を楽しいと感じながら、若菜さんに関する話題が出るたびに無理してのに、過ぎたせいか他人行儀な態度をとってしまった。  てっきり出会って間もない頃のように言い合いになると思っていたが、予想は大きく外れた。  捨てられた犬のような目をして、「おれは、気づかないうちに、桐生さんを怒らせるようなことをしてしまいましたか? どうしたら前のような関係に戻れますか……」と落ち込んだ声色で話しかけてきたのだ。 「先生のせいじゃありません。ただ、あまり調子がよくないんです」と嘘ではないが、本当でもないことを伝えた。  それ以上、先生がおれに言及することはなかった。尻尾と耳が垂れた状態で、すごすごと帰っていったのだ。 「こんなんじゃ先生を困らせて不安にさせるだけだ。しっかりしろよ」  実らない恋は潔く忘れ、踏ん切りをつけるんだ。  そうして以前のようなふたりに戻ると決めたのに……。  こうやって家で塞ぎ込んでいても埒が明かない。外に出て買い物をしながら散歩でもしようとカバンの準備をする。  バスに揺られ、市街地へ出てきたおれはショッピングモールで服や本を見て、消耗品や食品を買った。  だけど憂鬱な気分はなくならなかったのだ。  無意識のうちに楠先生が着ていた私服に似てるな、これも似合いそうとか、この間この小説を読んでいたよななんて考えている。挙句の果てに、新発売された猫用缶詰が視界に入り、ノワールとブランにプレゼントって渡したら先生も喜ぶよなと手にとり、食品と一緒に買おうとしていた自分に、げんなりした。  店内には、子連れの夫婦や学生カップル、買い物デートをしている老夫婦の姿があり、彼らの姿を目にするたびに気が滅入った。  せっかくの休みだからと気晴らしをしようと思ったのに逆効果だ。  気づくと楠先生のことばかり考えている。  購入した品をつめ終わったエコバッグを肩に掛け、モールの外に出ると強い風がびゅうびゅう音を立てて吹く。前髪が目に入り、ロングカーディガンの裾が巻き上がった。  瞬間、心臓がいやな音を立てる。  まさか、また喘息の発作か? それとも心臓の病気が再発したのかと服の胸元を掴んだ。  夏でもないのに異様なくらい汗をかき、手足が震え始める。  病院に行ったほうがいいかもしれないとスマホをカバンから取り出したところで、おれはアスファルトの地面にひざをついた。

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