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第16章 見えない心1

 抑制剤が効いてくれたおかげでタクシーに乗っても無事に家へ帰り着いた。  番になっていない状態ではオメガの男は妊娠しにくい。その上で性行為をしてから二十四時間以内に緊急避妊薬を服用すれば、八十パーセントの確立で妊娠を回避できる。  お父様の一件で傷つき、若菜さんを今でも愛している先生がセックスに慣れていない男を演じ、普段から不特定多数と行為に及んでいるとは到底思えない。  それでも万が一のことを考えて覚悟しなくてはいけない。  本来なら土日の夜間でもやっている病院へ駆け込むべきだと頭では理解している。  だけど知人でもない人間や恋人にレイプされたわけではない。おれ自身が犯される恐怖に飲み込まれた結果、悲劇が起きたのだ。  それをどうやって医師に伝えればいいか、わからない。  抑制剤を飲んでも甘い余韻の消えない下腹部へと手をあてた。  ここに命が宿ってしまえば先生と、どんな関係であろうと生むか・生まないかの二択を否応なしに迫られる。  オメガの本能は、発情期の最中に思いを秘めている相手と抱き合えたのに、無理やり発情期を抑え込んだことにご立腹だ。体内で薬の効果に抗い、反発していた。なぜアルファのもとを去ったのか、どうしてもっと愛し合って、うなじを噛んでもらわなかったのだと責め立てる。  スマホの電話が鳴り、ディスプレイを見れば、くだんの相手の名前が表示される。  このまま――無断欠勤を続けて退職することになれば瞬のメンツを潰すだけでなく、図書館のほかのメンバーにも迷惑が掛かる。  おれ自身、仕事を今すぐ辞めるつもりなどない。  先生のため、若菜さんのために何ができるだろうか行動してきた。見返りなんていらない、ただ好きになった人と過ごす時間が一分一秒でも長くなるようにと願っていた。やさしい心で彼の胸の痛みを癒したかったのだ。  それなのに、今は自ら真っ暗な穴の中へ足を踏み入れとしている。  意中の相手と一線を超え、欲が出たのだ。  帰り際に閉店前の花屋で手に入れた桜の枝と、ドラッグストアで買ってきた誘発剤が入った薬瓶へ目線をやり、通話ボタンを押す。 「……はい、桐生です」 『桐生さん、楠です! 今、どこにいるんですか!? まさかトラブルに巻き込まれてたりしませんよね?』  焦りをにじませた声で畳み掛けるようにして彼は話した。 「安心してください。おれは無事です。自分の足で自宅へ帰らせていただきました」 『自宅!? なんで!』と驚愕の声をあげる。 「先生とお夕食をとろうと思い、起こしましたが声を掛けても、『もう少しだけ』と気持ちよさそうに寝入ってしまわれるばかり。お腹も減ったので帰って来ちゃいました。せめて書き置きを残しておけばよかったんですが、そこまで頭が回りませんでした。すみません。抑制剤を飲んで落ち着いたものの身体の調子がよくないので住み慣れた家へ帰りました」  まるで息をするように嘘をついている自分に反吐が出る。 『おっ、俺のせいですよね……』とスマホ越しに先生が、かすかに声を震わせた。『その……お恥ずかしい話ですが、キスはもちろん、ああいうことことをシたのは初めてで……桐生さんに褒められて調子に乗りました。言い訳にしかなりませんが、最後は……気持ちいいことしか考えられなくなっていたんです。そのせいで、あなたの身体を乱暴に扱い、無理をさせてしまった。反省しています』  彼の言葉に、ほの暗い喜びを感じる。魂の番である若菜さんは先生の唇さえ知らなかった。おれが彼の初めての相手なのだ、と笑みを深める。 「そうじゃありませんよ、先生。外は花粉がひどいし、発情期を起こしたときに手足にすり傷やあざができてしまいました。抑制剤を飲んだら痛みが気になって家へ戻ったんです。最初出会った頃に先生も教えてくれでしょ。自分の身体を大切にしろって」  反論の余地なしと思ったのか『俺のほうこそ申し訳ありません』と謝ってくる。『今度は、ちゃんと起きます。だから――何も言わずに目の前から消えないでください』  胸がきゅうっと締めつけられ、良心の()(しゃく)にさいなまれる。  大切な人がある日、突然いなくなり、再会は最悪の形。気づいたときには、すでにこの世を去っていた。その痛みをおれも経験している。  だけど、ひとつだけ違う点がある。  おれは二十歳を超えた大人だったが、先生はまだ十五にも満たない子どもだった。  若菜さんをいまだに愛し、弟を大切にする行為はある意味、贖罪の儀式なのだ。  ただの仕事仲間でしかないおれは静謐な空間へ立ち入ることを許されていない部外者。今後は、その神聖な場所を勝手に踏み荒らし、すべてを打ち壊す加害者であり、冒涜者だ。  そんな恐ろしい考えをおくびにも出さないで「はい、先生。今度はそうします」と従順な羊のふりをする。「ところで先生」 『なんですか?』  スマホを握りしめる手に汗がじっとりとにじんだ。緊張で声が震えてしまわないよう細心の注意を払う。 「以前、うちの茶室で桜の花を見ながら、お茶を点てる約束をしましたよね。覚えていますか?」 『もちろん、覚えています』

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