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第16章 見えない心2

「今回、連休を頂いています。もし先生のご都合がよければ、うちの茶室でお茶を振る舞わさせてください」 『いいんですか……? おれが桐生さんのうちへ行っても』  あれだけ、あれこれ理由を作っては、先生と話したり、会うことを避けていた。それが急に、もとの態度に戻れば誰だって警戒するだろう。  だから、これは賭けだ。薄氷の上を歩いて陸地へ到達できるかどうか。一歩間違えれば氷の下にある冷たい水に落ち、命はない。 『でも大丈夫ですか? 茶室でお茶を振る舞うのにも、いろいろと準備しなくてはいけないでしょう。やはり病院へ行ってから日を改めたほうがいいのでは――』 「いいえ、大丈夫です」と言い切った。「あなたにひどい態度を取り続けてしまった。そのお詫びをさせていただけませんか?」 『桐生さん……』 「ただ体調が思わしくないので略式でご容赦ください。それから夜も更けたので、今日、お夕飯を一緒にとるのは難しいかと思います。明日こちらへ寄っていただけるようでしたら、ぜひお昼も作らせてください」  スマホのスピーカーから突然の申し出に先生が迷っている雰囲気がひしひしと伝わってくる。  いい返事をもらえるだろうかと待つこと一分。 『――それでは見舞いも兼ねて、そちらに伺わさせていただきます』 「ありがとうございます、先生」  了承の言葉を聞けたおれは胸を撫で下ろした。  この計画は彼なしでは成功しない。楠先生が心理的にも、物理的にも離れてしまった時点で、おれの唯一の希望が絶たれるのだから。 「では明日の十時半に、こちらへ来ていただけますか」 『必ず、そちらに行きます』 「お待ちしております。では、おやすみなさい」 『おやすみなさい』  ボタンを押し、スマホをこたつ机の上へ置いた。 「本当によかった……先生が情に厚い人で」  オメガの発情期に巻き込まれたアルファは大抵の場合、自分の人生を駄目にされたと怒り出す。性交したオメガを罵り、自分こそが真の被害者だと主張する。  でもオメガを守ることを優先する先生の場合は、若菜さんとおれを間違えた己の未熟さによる自責の念はあれど、仕事仲間を抱いてしまったことに対する怒りはなく、むしろ同情するはずと見込んだ。  先輩を今でも思い続けていると彼は勘違いしている。だからおれの貞操を汚した罪悪感により意向を汲もうとしてくる。  その予想通りに、うまくことが運んだ。  人の弱みにつけ込むような卑怯な手を使っている。  それでも、この危機的状況をチャンスにしたい。  ひとつ手に入れるだけで充分だと思えればよかったのに、もうひとつ、さらにもうひとつと手をのばすことが止められない。欲に際限がないからだ。  遠くから仏壇の遺影に向かって、おれは話しかけた。 「先輩、こんなおれを『見損なった』と幻滅しますか、それとも『バカな真似はよせ』と叱りますか?」  答えが帰ってこないとわかっている。  だけど幽霊や妖怪、化け物でも構わないから今すぐここに現れて「何をしているんだ、薫」って止めてほしかったのだ。  空腹なのに食べものがのどを通らないので風呂に入って寝た。  翌朝にも固形物を口にすると気持ち悪くなってしまい、朝ごはんにヨーグルトを食べるだけで終わった。  先日買ってきた誘発剤の瓶を出し、白い錠剤を飲む。  本来であれば発情期が不定期だったり、出産後に発情期の来なくなったオメガが使う薬だ。  発情期を抑制剤で抑えているオメガが飲めば、六時間経たないうちに発情期がふたたび起きてしまう代物だが、それが狙いだ。  お茶の準備や昼食のための下ごしらえ、掃除を済ませて着物へ着替える。  桜の花を陶器の花瓶に活け、ハマグリの貝の香合を用意し、練香は花の香りがするものを選んだ。  今日は十五分前からではなく時間ピッタリに先生がやってくる。  キャラメルマキアートの入った紙コップ片手ではなくはな屋の紙袋を手にし、スーツではなくオフィスカジュアな服装をしているのも様になる。  挨拶を交わしたとき、かすかに彼の頬や耳が赤く染まっていたのは気のせいじゃない。  妙にかしこまった態度で菓子の袋を渡してくる。 「先日の件は、なんと謝っていいのか……ご無礼な真似をした挙げ句、最後まで気の利いたこともできず、申し訳ございません。その……お身体のほうは大丈夫ですか?」 「ええ、この通り大丈夫です。緊急避妊薬もすぐに飲んでピンピンしています。あれは町中で発情期を起こしたおれが悪かったんです」 「それに一度抱かれただけですから」と心の中でだけ言う。 「むしろ、おれのほうがご迷惑をお掛けしました。先生に、あんなことをさせてしまって」  すると先生は目を伏せ、神妙な面持ちをした。  そのまま茶室に入ってもらう。  彼の持ってきてくれた和菓子を出し、お茶の準備に取り掛かった。  静寂な狭い世界で彼の息遣いや体温を近くに感じる。  心臓の音が聞こえてしまわないかという恐れと期待が入りまじった心で、お茶を点てる。  アルファとオメガとして剥き出しの欲望をさらけ出した夜とは対比的に、楠大和と桐生薫という人間として無言のやりとりをする朝。

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