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第16章 見えない心4

「話をしたり、遊んだり、外食をすることはあったけど、こんなふうに料理を作ってもらう機会は一度もなかったですよ」 「そう、ですか……」  どんな反応をとったらいいか思いつかず弱っていれば、先生が声をあげて笑った。 「若菜さんを話題に出したのは桐生さんですよ? それなのに気まずそうにされると困っちゃいますって」 「……すみません」  すると先生はピタリと笑うのをやめたのだ。 「冗談ですから、そんな顔をしないでください」  今、自分は、どういう顔をしているのだろうと思い悩みながらも対面する形で座っている先生を見る。 「今、こうやって、うまい飯を食えている。それだけで、もう充分なんですよ。過去は過去なんですから」 「先生……」  なんだか以前よりも吹っ切れているというか、やわらかい雰囲気になっている気がするのは気のせいだろうか?  十月の半ば過ぎから、ここに来て半年が経った。少しは栃木での生活や仕事にも慣れてきている。  少しずつだけど先輩を失い、面影を追いかけていた頃の自分と変わったと思う。  先生との仲も、ずっとよくなって、いい仕事仲間として距離が縮まった。  期待をしたらいけない。もしかしたらで都合のいいことを考えて、期待がふくらめばふくらむほど、後で現実と夢の乖離に苦しむことになる。  昼食をとり終え、食後のお茶を飲んだ。  ふたりして無言のまま、会話のきっかけをさがしている。いたずらにときだけが過ぎていく。  このまま「帰ります」と彼が立ち上がってしまえば、昨夜のことがうやむやになる。それだけは絶対に回避したい。 「着替えてきますね」 「あっ――はい、どうぞ」とそっけない返事をした先生は、別室へ移って着物を脱ぐと思っているのだろう。  だがおれは、襖の開け放たれた隣の間に屏風を広げ、帯を解いたのだ。  衣擦れの音がする中で、彼の狼狽する気配が背後から伝わる。はしたないやつだと罵られたり、先生がその場を立ち去ったらそれまでだ。  だが、もう後に引けない。  取り去った帯を畳の上に落とし、脱いだ着物も脱ぎ捨てる。どちらもしわにならないよう手早く着物用ハンガーに掛けていると、まるでタイミングを見計らったかのように誘発剤の効果が出始める。  腹部が熱を持つ、切なくなる。昨日彼の唇で吸われた快楽を思い出すだけで身震いして、息をするのも苦しくなった。鼓動が一層速くなっていき、今、ちゃんとこの心臓が機能していて、おれを生かしてくれているのだと実感させられる。  その場に留まっていてくれた先生が「今日はなんだか少し汗ばむ陽気ですね。花粉も多く飛ぶわけだ」と話しかけてくれる。  下着と足袋を取り、裸に長襦袢だけの姿になった。息を整え、彼の前に姿を現す。 「桐生さん、この後は、もしよかったら」 「先生……」  すると彼は視線をさまよわせてからメガネの縁を右手の指先で上げ、顔を背けた。 「着替えを忘れてきたんですか? 早く服を着てください」  後ろから彼の首元に抱きつき、耳元に唇を寄せる。 「昨日の夜のように抱いてくれないんですか? おれは抱いてほしいです」  沈黙が訪れる。拒絶される恐怖におびえながら彼の言葉を待ち続けた。  手にそっと先生の大きな手が触れ、大きく脈を打つ。 「桐生さん……変なことを言わないでください。手首のあざが、まだ消えてないじゃないですか」  ひゅっと息を飲んだ。  おれの拘束していた手を離し、彼は立ち上がった。両手の先を大きな手でそっと包み、困り顔で笑いかけてくる。 「あんなことがあった後なんです。もっと自分を大切にしてください。昨日、おれに『休め』って言ったのに自分は無茶をするんですか?」 「違う、そうじゃなくて!」 「今日はこれでお暇しますね。明後日、また会えるように、早く元気になってください」 「行かないで!」  迷惑になるとわかっていても、このまま置いてかれるのがいやで、彼の背中に縋りつく。 「体よくあしらわないでください! おれを見たくないのなら袋でもかぶって顔を隠します。若菜さんの名前を呼んだっていい!」 「桐生さん、何を……!」  頭に来たのか先生が大声を出し、眉間にしわを寄せ、こちらを向く。 「同情でも構いません。だから……このまま……そばにいてください」  彼の胸元に額を預ける。泣かないと決めたのに、泣きたくなってしまった。  ポタポタと水滴が床へと落ちていく。  大の男が情けない。  なんで、おれはこんなにも必死になっているんだろう? 若菜さんの話を聞きたくないと本音では思っているくせして、先生の気を惹くために故人の名前を利用するなんて最低だ。そうして代役にすらなれないことに勝手に傷ついてる……バカみたいだ。  男らしい手が両肩に触れた。  力の限り突き飛ばされるか、乱暴に肩を揺さぶられる。先生の大切な人の名前を汚したから平手打ちや拳のひとつくらいは食らうかも知れない。  そうして楠先生は化け物か野獣に遭遇した人のように戦慄した顔で去っていく。そんな姿を見たくないと思い目をつむって後悔しても遅い。  しかし、おれはやさしい力で引き寄せられ、お日様の香りと熱い身体に包まれた。

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