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第17章 セフレ2

「助かります」  彼はマグカップの水を飲み干した。カップを持っていない左手で頬を撫でられる。 「でも無理はしないでくださいね。薫さん、俺のことばかり優先して、すぐに自分のことをおろそかにするから」  痛いところを突いてくるなと自嘲気味に笑う。 「おれも先生の力になりたいんですよ。いつも先生に助けてもらってばかりじゃなくて、忙しいあなたを少しでも支えられるようにしたいし、そうありたいと思っています。これって『でしゃばり』でしょうか?」  そうすれば身体をつなげていないときでも、あなたと一分一秒長くいられるからと声には出さず心の中でだけ言う。  同時にどこまで踏み込んでいいのか、そのさじ加減がわからない。  東京のデパートで働いていたとき、スタッフルームの扉の前で帰り支度を済ませた女性陣が女子トークをして、やけに盛り上がっているのを目にした。そうして彼女や恋人、奥さんに求めるものとセフレや愛人、浮気・不倫相手に求めるものは違うという話を聞きかじったのだ。  当時は、相手がすでにひとりいるのに複数人と関係を持ったり、遊びの恋をするいかがわしい男の話を職場でするなんて不謹慎だと腹立たしく思ったが、こんなところで使えるのだから世の中、わからない。 「どこで線引きをするかは個人による」と彼女たちは言っていた。それから「相手の求める以上のことをやって一度不興を買ったら次はない」とも。  数少ない知識を駆使して、彼から飽きられてしまわないよう、うまく立ち回る。  もし何かのトラブルで先生との関係を家族にでも知られたら――「アルファの男と番えと言ったが間男を作れとは一言も言ってない!」と父が憤慨すること間違いなしだ。  頬から手を離した先生が「『でしゃばり』だなんて思ったりしてません」と目を細め、やわらかな笑みを浮かべる。「ただ、慣れていけばそれが当たり前になって横柄な態度をとってしまうかもしれない。ブランやノワールにだって俺といるときは好き勝手やっていいけど『薫さんを噛んだり、引っ掻いたら怒るぞ』って口を酸っぱくして言ってるんです。もし俺が、薫さんにぞんざいな態度おとったら猫たちからバカにされます。そんな自分を危惧し、自重しているんです」 「そうですか。それなら、よかったです」  懐が深く、先のことまで考える先生は、おれが仕事仲間兼セフレになってもやさしく接してくれる。  運がよければ仕事を切り替えた後も会ってもらえるかもしれない。  でも、それは奇跡でも起こらない限りあり得ないなと思い直した。  いつか先生は目を覚ます。やっぱり若菜さん以上の人は、この世にいない、と。 「それより、そろそろ忘れてくださいよ。薫さんに『でしゃばりだ』って言ったこと」と彼が眉を八の字にする。 「いやです。人から控えめだとか、根暗で言葉が少ないって言われることはあっても、でしゃばりだなんて言われたのは人生で初めてでしたから」  とはいっても実家の父と喧嘩するたびに「口やかましい男だな。一体、誰に似たんだか」と小言を言われてきた(そばにいる母や、兄たち、時雨があきれ顔をしていた理由は今でもわからない)。  わざとすねていれば、先生がソファの前にあるテーブルの上にマグカップを置いた。 「それを言うなら薫さんだって、ひどいじゃないですか」 「なんのことだ?」 「今と違って出会って間もない頃は俺を誤解してたでしょ。朝霧さんが全部、話してくれましたよ。『礼儀のなってないジャージ男だ』って」  あの裏切り者! 先生に何を吹き込んでいるんだ!?  頭の中で「隠し事をしたって、いつかバレるんだから。先に話しておいたぜー」とこちらに向かって親指を立て白い歯を見せる瞬の憎らしい姿が、ありありと浮かんできた。 「先生、確かに最初はそう思っていましたが今は、そんなことはまったく思っていません」 「ほら、やっぱり本当だ」 「先生!」  すると彼は口元に手をあて、顔を横にやって肩を震わせた。  そんな彼の姿に、おれも自然と笑みがこぼれる。 「お互い様だな。朝霧さんや、おばさんの言葉のほうが正しかったな」 「ですね。それじゃあ、おれもお風呂をいただいてきます」 「はい、いってらっしゃい」  背中越しに先生の声を聞き、ベッドルームにタオルや下着、パジャマを取りに行く。  彼の愛用しているシャンプーやボディソープを借りて全身を洗い、ユニットバスに入って三角座りをする。オレンジの香りの入浴剤が入れられた浴槽の中で温まるまで、カビの生えていない手入れの行き届いた白い天井を見上げていた。  肌の手入れと髪をドライヤーで乾かすのを終え、水を飲みにキッチンへ行く。  アウトレットで買ったマグカップを手にしてリビングへ戻る。  食器を片づけたテーブルの上には、先生が書斎から取ってきた書類や分厚い本に教科書、ノート、ノートPCが広がっていた。授業の準備をしているのか真剣な眼差しをしてノートにペンを走らせている。  ソファに腰掛け、水を飲みながら彼の横顔を観察する。いつも以上にかっこよくて様になっていた。

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