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第8話
カイルの言葉通り、図書室で待っていると、そっと扉が開き、ジークが静かに入ってきた。
いつもの重厚な王の装束ではなく、柔らかな色合いの軽装だった。どこか旅人のような気配をまとうジークに、チルは思わず息をのむ。
広い肩、すっと通った鼻筋、そして涼やかな目元。凛々しさの中に、ふとした優しさが漂っている。
「チル、待たせたな。さあ、行こう」
「……は、はいっ!」
夜の街は昼間の喧騒とは違い、仄暗く静かな空気に包まれていた。王宮からさほど遠くないそのエリアは、庶民も貴族も行き交う場所。石畳に伸びる影、揺れる街灯の光が、幻想的な景色を作り出している。
ジークが連れていってくれたのは、可愛らしい木の看板を掲げた小さな店だった。
扉を開けた瞬間、ふわりと香ばしい匂いが鼻をくすぐる。外の静けさとは裏腹に、店内は温かで、どこか懐かしい空気が流れていた。
木の椅子、小さなランプ、素朴な食器。
可愛らしいその空間に、チルは自然と肩の力が抜けていった。
席につくと、ジークの顔がほのかにロウソクの灯りに照らされる。近くで見ると、少しだけ疲れているように見える。けれど、チルに目を向けたとき、その顔がやわらかくほころんだ。
「来てくれて、ありがとう。こうやって、ゆっくり過ごせるのは…久しぶりだな」
「はい……本当に、お久しぶりです」
「はは、かしこまらなくていいよ。今日は、ただの食事だから。たくさん食べよう」
笑い声と食器の音、人のざわめきが耳に心地よい。ジークとこうして隣り合って過ごす夜が来るなんて、想像したことすらなかった。
素朴な店だが、運ばれてきた料理は、チルが見たこともないものばかりだった。
とろりとチーズが溶けた焼き物、香草の香りがふわりと広がる肉の煮込み、宝石のように彩られた野菜のスープ。
「多分……チルは、これが好みだと思う」
ジークの勧める料理をおそるおそる一口。
途端に、口いっぱいに優しい旨みが広がった。
「……んんっ! すごく美味しいです!」
目を丸くするチルの顔に、ジークがふっと笑う。
「こういうの、初めてか?」
「はい。なんだか……お祝いみたいです」
「君とこうして食事がしたかった。……昼は、少し難しくなったからな」
そう告げる声が、少しだけ寂しげで、けれど、確かな想いが込められているようで、
チルの胸の奥が、また甘く温かくなった。
「ジーク様、今は大変な時期でしょうか。お昼を召し上がっていないと聞いて、少し……心配で」
王を案じるのは、図々しいことなのかもしれない。それでもチルは、心からそう思っていた。
目の前にいる人が、ただの王ではなく、ジークという人として、気がかりでならなかった。
ジークは一瞬だけ驚いたような顔をし、すぐに笑った。
「今は……そうだな、少し忙しい。でも、大きく動き始めている。王室も、国も、どれもうまくいっているよ」
その瞳に宿るのは、確かな炎。
そして、どこか慈しむような光だった。
「ほら、毎日図書室に通ってくる、図体がでかい男がいるだろ?」
くくっと笑って、ジークはカイルの話を始めた。
カイルは、民の中に眠る「才」。
貴族だけで固められた旧体制に風を入れるため、王自ら試験で選んだ側近だった。忠実で、頭が切れて、何より行動が早い。頼りになる存在だとジークはいう。
「国を、もっと自由で平等な場所にする。
多くの民が、明日を信じて生きられるように。……カイルと共に動いている」
その言葉は力強くて、だけどどこか優しかった。チルはただ、黙ってその横顔を見つめる。
目の前にいるジークは、王という存在以上に、誰かの明日を信じて進む人だった。その背中が、胸が、言葉が、温かくて、まっすぐで、チルは胸が熱くなる。
「ジーク様のお話は、いつも感動します。ワクワクして、目の前が、気持ちが明るくなるようです。…それに、カイル様のお人柄も伝わってきます。毎日、あの…手紙をお届けしていて…私も、信頼できる方だと感じています」
「……あいつ、毎日チルのところに長居してないか?」
「え?いえ、そんな…すぐ戻られますよ?」
「そうか?」
どこか腑に落ちない顔でうーんと唸るジーク。チルが首をかしげると、その視線とぶつかった。
ぱちりと目が合い、ジークがふっと笑う。
その笑顔は王のそれではなく、どこまでもジークだった。
「チル、明日は休みだろ?少し、飲もうか。この果実酒に蜂蜜を混ぜてもらうと、飲みやすくて美味いんだ」
「わあ、果実酒…!綺麗な、琥珀色……!」
うっかり色の話をしてしまい、ハッと息を飲む。けれどジークはまったく気にした様子もなく、むしろ嬉しそうに笑っていた。
「あはは、気にするな。チルに色を教えてもらうの、俺は好きだぞ。もっと教えてくれ。色を知りたい」
その笑い声は、初めて聞くような、無邪気で、開け放たれたものだった。
チルの胸が、きゅっと小さく痛む。
温かくて、くすぐったくて、だけどどこか切ないような…気がした。
こんなふうに笑う人に、惹かれ、チルも自然と笑顔になる。笑いながら、心の奥底が甘く満たされていくのを感じていた。
テーブルには、色とりどりの果実酒が並んでいた。深紅に、琥珀、透き通るような無色のものまで。ジークはそのどれもを豪快に口にしながら、笑っている。
その姿を見ているだけで、チルの胸が弾んだ。気づけば、自分もぐいと杯を傾けていた。
甘くて、美味しくて、くすぐるように喉を滑る果実酒。
「チル…大丈夫か? 水を、もらおう」
ジークの声がすぐ近くで響く。差し出された水は、ひんやりとしていて、彼の指先のぬくもりがかすかに残っていた。
久しぶりにこうして、ジークと顔を合わせて、食事をして、笑い合えることが、ただただ嬉しい。
「ジーク様、大丈夫ですよ。ほら、美味しいんです、こっちのも…すごく、甘くて」
「…ああ、そうだな。でも、ちょっと飲み過ぎたか?」
そう言いながら、ジークはふっと微笑んだ。
そして、その指がするりとチルの頬を撫でた。ひやりとした、けれど確かな温度のある指先。頬を滑って、そこに色を描くように。
「……頬が、赤いな」
まただ…
ジークは前にも、同じことを言った。
チルの中に、ひとつの想いが浮かぶ。
「ジーク様…もしかして…触れると、色が見えるのですか?」
小さく問いかけた声に、ジークは笑った。
まるで何かを見透かしたように、穏やかに、包み込むように。
「……はは、そうかもな」
その笑顔のまま、ジークの指がまたチルの頬を撫でる。
「チル……俺には、大切なものがたくさん見える。こうやって触れているとな…」
今度は、優しく、何度も…
まるで確かめるように。
静かだった。
店のざわめきが遠のいて、まるでこの空間にふたりしかいないみたいに。時間の流れがゆっくりになって、心音だけが近くなる。
「……だったら、触れてください。色が見えるように…私に、その役目をください」
酔っているからだろうか。
こんな言葉が口をついて出るなんて、自分でも信じられない。
けれど目の前のジークから、もう目を離せなかった。
「…チル。頬も……唇も、赤いぞ」
ジークの指が、頬からゆっくりと滑り、そっと唇の端に触れる。
触れたのは、ほんの一瞬。
でもその熱は、チルの中でずっと消えなかった。
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