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第9話
ふと、まぶたが開く。
ぼんやりと映ったのは、天井から垂れる高い天蓋のカーテンだった。淡い朝の光を受けて、レースのように静かに揺れている。
「…ここ、どこ……?」
体を起こそうとすると、背中がふかふかのクッションに沈み込む。柔らかい寝具の感触に戸惑いながら視線を巡らせると、金糸の刺繍が施された布団、繊細な彫刻のベッドフレームが目に入った。
ここは……
チルの心臓が、跳ねた。
「え、えっ、なんで……!」
思わず上体を起こしかけたその瞬間、背後から落ち着いた低い声が響いた。
「おいおい。そんなに慌てなくていい。まだ体が熱いだろう?」
驚いて振り向くと、ソファに深く腰かけたジークがいた。ラフな部屋着に着替え、グラスを手に、静かに微笑んでいる。
王の部屋。
しかも、王の寝台だ……
「ジ、ジーク様!? ど、どうして私がここに……っ」
「昨日のこと、覚えてないのか?」
「……あ、果実酒……」
その言葉に、昨夜の記憶がかすかに蘇り、チルの顔が一気に赤くなる。
「途中で、急にコテンと眠ってな。あのままだと椅子から落ちそうだった。だから運んできたんだ。無理に起こすより、こっちのほうがいいだろうと思ってな」
「こっちの…ほうが……?」
「チルに何かあってはいけないからだ」
その一言がさらりと投げられ、チルの胸がまた高鳴る。
「それに、君の寝顔、珍しかったぞ。子犬みたいに丸くなって、俺の腕にすり寄ってきてた」
ジークはくすっと笑いながら立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。その気配に、チルの背中がじんわりと熱を帯びた。
「も、も、申し訳ございません!ジーク様」
「ふふ。酔いが抜けたら朝食でも取ろう。今日はチルが休みで、俺も会議の前まで時間がある。少し、ゆっくりできる」
ベッドの縁に腰を下ろしたジークが、そっとチルの髪を撫でる。その手のひらは優しく、昨夜の出来事を静かに思い出させた。
「昨夜…君は言っただろう。『触れてください』って。本気だったのか?」
「えっと、それは…酔っていた、かもしれません……」
「はは、確かにちょっと酔ってたな。でも…嬉しかったよ。酔ってても、君の中にそんな気持ちがあったんだって思えた。それだけで、もう十分だ」
ジークの声は低く、けれどどこまでも甘く、心の奥を溶かすようだった。
「……今も、触れていいか?」
そう囁かれた指先が、そっとチルの頬に触れる。
それから、額に。耳に。
優しく、確かめるように。
ジークが少しずつ距離を詰めるたびに、チルの心臓は跳ね、息が詰まりそうになる。
思わず目をギュッと閉じると、隣で微かな笑い声がこぼれた。
「……朝食を運ばせるように言ってある。少し待てば来るだろう」
その声に、ようやくチルは浅い息を吐いた。けれどまだ体は火照ったままだった。
「ご迷惑をおかけしました…王の寝室にまで……本当に、申し訳ありません」
「迷惑だなんて思ってない」
ジークはふっと笑い、穏やかに言葉を続ける。
「……不思議と、しっくりくるんだ」
「しっくり……?」
「そうだ。ここにチルがいるだけで、空気が柔らかくなる。そう思わないか?」
その言葉に、チルの胸がじんわりと温かくなる。ジークは、本気で言っている。それが伝わってくる。
「…そんな、恐れ多い……です」
「また、それだ」
ジークが小さく笑って、ベッドの端に手をつく。
「君はすぐ、恐れ多いと言う。もっと、自分がどれだけ俺にとって特別か、知ってくれ」
「っ……」
言葉が出ない。
そのとき、控えめなノック音が響いた。
「失礼いたします、陛下。ご朝食をお持ちしました」
王の寝室の奥、窓辺に寄せられた小さな丸テーブルには、朝食が静かに準備されていく。
「チル、食べられそうか?」
「……はい」
チルはゆっくりとベッドから身を起こし、そっと足を床につけた。
毛足の長い絨毯が裸足の足裏をひんやりと包み込み、その感触が現実の中に引き戻してくれる気がした。
王の前で、こんなふうに寝室で食卓に向かうだなんて、考えられなかった。けれど、目の前でジークがやわらかく微笑んでいる。それだけで、不思議なあたたかさが胸の奥にじんわりと灯り、自然とその足取りを後押ししてくれた。
運ばれてきたのは、白い陶器に盛られた新鮮な果物、焼き立てのパン、香り高いハーブスープ。整然としているのに、どこか温かみのあるものだった。
テーブルのそばまでたどりつき、椅子に手をかけたそのとき、ジークがそっと、その手を制した。
「こっちにおいで。ソファで食べよう」
そう言って、隣のソファの空いたスペースを示す。戸惑いながらもチルは促されるまま腰を下ろした。
ジークは静かに、テーブルに並んだポットとカップを手に取る。カップを一つ、チルの前にそっと置くと、自分の手で紅茶を注ぎはじめた。
しゅう…と、蒸気がふわりと立ちのぼり、香り高い茶葉の匂いがふたりの間に広がっていく。
「熱すぎないうちに、飲んでくれ」
ジークが入れてくれたカップから、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。花の蜜にも似たやわらかなその匂いが、胸の奥まで染みこんでくるようだった。
「あ、ありがとうございます。……これは、ハチミツ入りですか?」
「好きだろ?ハチミツ入りの紅茶だ。ちゃんと用意させた。甘いのが、いいんだろう?ほら」
思わず頷いた瞬間、カップがそっと差し出される。その指が、ふいにチルの指に触れた。
「……!」
わずかな触れ合いに、胸が跳ねる。
ジークはまた、楽しそうに微笑んでいた。
ジークはテーブルから朝食の皿を丁寧に持ち上げ、ひとつひとつソファの前のテーブルに並べていった。
「無理に全部食べなくてもいい。でも、少しだけでも口にしてくれたら、俺が安心する」
そう言って微笑むジークの声は、穏やかで、柔らかくて、心にそっと触れる。
「は、はい…ありがとございます…いただきます」
チルはパンに果実のジャムをのせ、そっと口に運ぶ。昨夜の緊張もまだ残っているのに、身体は不思議と穏やかだった。
ジークは紅茶を口にしながら、まっすぐチルを見つめている。静かな朝の空気が、ふたりだけのもののように感じられた。
「チル。こうして一緒に食事をするだけで、落ち着く。…君がいると、穏やかだ」
「えっ……わ、私ですか……?」
「そうだ。毎朝、君の顔が見れたらと思う。君の声を聞いて、色を教えてもらって…そんな朝を過ごしたい」
ジークはふっと口角を上げた。
その笑みはあたたかくて、けれどどこか策士めいている。
「だから、提案だ。王室の、俺の隣の部屋が空いている。君がそこに滞在すれば、自然とこうして朝に顔を合わせられる」
「えっ……は、えっ? な、なぜそんな」
「個人的なお願いだ、チル。王としてではなく、ジークとして。俺に……色を教えてくれるんだろ?」
チルは手を止めた。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
王の言葉に、私情が滲む。本来、あってはならないはずなのに。
けれど「色」と言われると、どうしても逆らえない。
__触れたら色が見えるのか、と。
昨夜、自分から尋ねたことだった。
返答に迷っていると、ジークが再び囁いた。
「毎朝君に触れて、色を見させてくれ」
目の前の王は、誰よりも真剣で、優しく…そして、危ういほどに甘かった。
その声に、抗えるはずがなかった。
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