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第10話
ジークに「隣の部屋に来てほしい」と言われたまま、呆然としていたチルの自宅にカイルが訪ねてきた。ドアの前で、丁寧に深く一礼される。
「陛下が少し無理を申し上げたようです。ただ、チルさんが王宮に滞在してくださるなら、私としても大変ありがたいのです」
「ありがたい……ですか…?」
何がありがたいのかと首をかしげている間にも、カイルと共に来ていた侍女たちが手際よく荷造りを始めていた。
「最低限の身の回りの品だけで結構です。お部屋には必要なものはすべて揃っておりますし、小さなキッチンもあります。どうか、いつも通りの暮らしをなさってくださいね」
手際のいい侍女たちに、あれよあれよという間に荷物はまとめられ、チルはそのまま王宮での滞在を始めることになった。
キッチンがあると聞いていたが、実際は「小さい」とは思えない広さで、チルが今まで暮らしていた部屋の何倍も充実している。
冷蔵庫を開ければ、豊富な食材がぎっしりと詰まっていた。
「チルさん、もし可能でしたら、陛下の朝食を作っていただけないでしょうか」
「…朝食…ですか…?」
カイルからの思いがけないお願いに、チルは目を瞬いた。
「陛下…かなり偏食でして。王宮の料理長が、手を焼いているようなんです」
その言葉に絶句する。
ジークはこれまで、チルが作ったお弁当をいつも嬉しそうに食べてくれている。
「うまい」と笑ってくれていた、あれが偏食の人の反応だったとは信じがたい。
言葉に詰まっているチルに、カイルが少しだけ笑って肩をすくめる。
「チルさんのごはんを好んでいたのは本当ですよ。でも…少し格好つけてたんでしょうね。この機会に、偏食も直してもらいましょう。どうか、よろしくお願いします」
深く丁寧に頭を下げられて、チルは小さくうなずくしかなかった。
それから、静かに王宮での暮らしは始まった。最初は、日々のひとつひとつに戸惑うこともあった。何もかもが丁寧で、整っていて、そして何より、王の隣の部屋に滞在する自分が信じられなかった。
それでも、今ではもう、ジークの朝食を任されることにも、少しずつ慣れてきていた。少しずつ、居場所を得ているのかもしれない。
今朝は、パンにバターとチーズ、卵とベーコンを焼いてみる。マッシュポテトと彩りのよい野菜の付け合わせ、そしてミルク。
王宮の食事に比べたら、質素なものかもしれない。けれどチルにとっては、これでも特別な朝食だった。ひとりの時には、ここまで丁寧に食事を作ることはなかった。
けれど、気になるのはカイルの言葉だ。
偏食って、本当なんだろうか。
本人には怖くて聞くことができない。
だけど、もしかしたら今まで、ジークに苦手な食材を食べさせていたのかもしれない。そう思うと、急に何を作ればよいのかわからなくなる。
けれど、朝食の時間が来れば自然と心が浮き立つようになっていた。
コンコンと、ドアがノックされ、返事をすると、ジークが顔をのぞかせる。
「おはよう」
「…おはようございます」
ドアを開けると、いつものように目が合い、ジークはふっと笑い、つられるようにチルも笑顔になった。
毎朝、決まった時間に現れるジーク。必ずその時間にはジークに会える。その時が近づくと、チルは自然と笑みをこぼして待っている。
「……うまい」
静かな朝の空気のなか、ふたりきりの食卓。ジークのその一言に、チルは心の中で大きく息をつく。嬉しい。
「いつも、同じようなメニューになってしまいます」
「いいじゃないか。俺は、いつもと同じが好きなんだ。チルと朝からご飯を食べられる、それだけで幸せだよ」
さらりとそんなことを言われるたびに、胸の奥を掴まれたようになって、言葉が出ない。
そして、朝食のあとは、決まって告げられる言葉がある。
「今日も…君の色を知りたい。見せてくれ。目を閉じても、思い出せるくらいに」
ふたりきりの空間。
ジークの手がチルの頬に伸びてくる。
チルは自然に、ジークの隣に座る。頬を両手で包まれ、優しく撫でられる感触に目を細める。
「ジーク様……色、見えますか?」
「ん?よく見えないな…もっと見せてくれ」
そういい、更に近くに引き寄せられる。チルは顔が熱くなるのを感じた。手のひらから伝わるぬくもりに、心まで包まれる気がした。
「なんだか……恥ずかしいです。でも……」
「でも?」
「……でも、ジーク様の手は……気持ちいいです」
思わずこぼれた言葉に、ジークは笑う。そしてそのまま、指先でそっとチルの唇をなぞった。
ジークの熱が、指から唇へと伝わっていく。体の奥がじんわりと温かくなって、胸がきゅっと締めつけられる。息をすることさえ忘れそうだった。
毎朝、ジークに丁寧に触れられ、優しく扱われる。名前を呼ばれるたび、触れられるたびに、胸の奥がふわりと温かくなる。
静かで、穏やかで、あたたかい……ふたりだけの世界に満ちた朝。
そのぬくもりに包まれながら過ごすひとときが、チルはたまらなく好きだった。
そしてチルは、そんな日々のなかで、王宮での暮らしに少しずつ、でも確かに慣れていった。
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