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第11話
昼は相変わらず多忙なジークだが、朝だけは変わらず、ふたりで食卓を囲む時間を守ってくれている。
そして今日は、少しだけ遅めの朝食から始まった。窓からは柔らかな朝陽が差し込み、薄く揺れるカーテン越しに、鳥のさえずりが静かに響いていた。
静かで穏やかな、まるで夢のようだ。
そんな空気の中、今日もふたりきりの朝が進んでいた。
朝食を終え、ふたりで並んで紅茶を飲んでいると、ジークがふとチルに目を向けた。
「チル、今日は仕事休みだったよな?」
湯気の立つカップを手にしながら、その声はどこか嬉しそうだった。
「はい。おやすみです」
「俺も久しぶりの休日だ。今日は、一日ゆっくりできる」
ジークが丸一日休むのは本当に久しぶりで、チルは思わず表情を緩めた。
「よかったです…ジーク様、いつもお忙しいから」
「だから今日は……チルをさらってもいい?たまには、王のわがままも許してくれ」
ジークはふっと目を細めて、茶化すように微笑んだ。
「……えっ?」
チルはきょとんとした顔で思わずジークを見上げる。まさかそんな風に誘われるとは思っていなかった。戸惑いと驚きが入り混じった声が漏れる。
「君を外に連れ出したい。午前は市場を歩いて、昼は美味しいものを食べて、午後は……人のいない場所で、ふたりきりでゆっくり話をしよう」
「ジ、ジーク様……」
目を見開いて、ぽつりと名前を呼ぶチルに、ジークは穏やかに微笑みながら囁いた。
「たまの休みだ。……今日は、君の色をいつもより見せてもらいたい」
唐突で、けれどどこまでも優しいその言葉が、まだ少しぼんやりしていたチルの心に、じんわりと染み込んでいく。
「……じゃあ、ちょっとだけ支度を……!」
頬を赤く染めたまま、チルは椅子を引いて立ち上がった。ジークはその様子を微笑ましそうに見守りながら、口元にカップを運ぶ。
「急がないでいいよ。ゆっくり行こう」
ジークの言葉に、チルはこくりと頷いた。
それでも、気持ちは抑えきれずに、急ぎ足で着替えを始める。
ジークとふたりで出かけるのは、夜に一緒に食事をしたとき以来。そう思うと、胸の奥がそわそわと騒がしくなり、嬉しさが全身を駆け巡る。
支度を終えると、チルは思わずその場で小さく跳ねた。嬉しさがあふれて、じっとしていられなかった。
身支度を整えたチルが戻ってくると、ジークは薄手の外套を肩にかけ、いつもとは違う、少しカジュアルな服装をしていた。
「準備できたか?」
「はい……お待たせしました」
「よし、行こうか。今日は一日、チルを誘拐して、誰にも渡さず独り占めするつもりだ」
「……っ、独り占めって……」
冗談めかしたジークの言葉に、チルは思わず顔を真っ赤に染める。それでも、嬉しさは隠しきれず、口元が自然とほころんでしまう。
そのままふたりは並んで歩き出す。王宮を後にして、特別な一日が始まった。
王宮を出てしばらく歩くと、街のざわめきが近づいてくる。通りには市場の活気があふれ、色とりどりの布がはためき、香辛料や果物の香りが風に乗って届く。
「……わあ」
チルが思わず小さく声を上げた。
目の前には、見たことのない形の果実や、宝石のような菓子、職人が目の前で編み込んでいるカゴなどがずらりと並んでいる。
人々の笑い声、子供のはしゃぐ声、商人の呼び声が、にぎやかに混ざり合っていた。
「すごい……こんなに品物が揃ってるなんて……!」
ふだん外に出ることはほとんどない。今は図書室と王宮の往復ばかりのチルは、子供のように目を輝かせた。
ジークが隣で歩調を合わせるのも忘れるほど、あちこちに視線が飛び、気になるものに吸い寄せられる。
人も多く集まる市場は活気があり、時に人並みに飲まれそうになる。
「チル、ほらこっち。はぐれないように」
ジークがチルの手を取った。人混みで逸れないようにと、指先を絡めるようにして手を繋がれる。
ドキン、と心臓が跳ねた。
初めて触れるその手のひらは、思っていたよりも大きくて、あたたかい。
「なあチル、これ見てみろ。このお菓子は果物で出来ているそうだ」
ジークが指差したのは、果実を煮詰めて固めた、宝石のような小さな菓子。
ふとその拍子に、繋いだ手をぎゅっと軽く握られた。その感触に、チルの心臓がぴくりと跳ねる。
不意打ちに目を見開きながらも、そっとジークを見上げると、彼はまるで何事もなかったかのように視線を菓子に向けたままだ。
これはなんだろう…声に出せば手が離れてしまいそうだ。些細な仕草に、この手の温度に…胸がきゅっとなる。
繋がれているだけで胸が高鳴るのに、ぎゅっと握られたら、もう跳ねてしまいそうになる。それでも、なぜか心がふわりと浮かぶように嬉しくて…
チルはそっと息を整えると、意を決して、ジークの手をきゅっと握り返した。
返した力に、わずかに驚いたようにジークがこちらを見下ろした。視線が交わった瞬間、ふたりともくすっと、こぼれるように小さく笑い合った。
ぎゅっ。
今度はジークが、もう一度そっと指を絡め直し、そして、また握り返してきた。触れ合う面積が増えたことで、チルの心臓がまたひとつ跳ねる。
チルも黙って、同じように手を握り返す。
ぎゅっ。
雑踏の中、ふたりだけの遊び__
それはまるで、ふたりの心がぴたりと重なった音のようだった。
誰にも聞こえない、見えない。人混みのざわめきに紛れてしまうような、けれど確かにふたりだけに届く、内緒のやりとり。
ふたりはそっと笑い合いながら、ふたりにだけわかる合図を送り合う。手をつないだまま人混みのなかを歩いていく。
ぎこちなくも、チルはきゅっと指先に力を込める。それだけで、耳の奥がじんわりと熱くなった。
どれだけ人がいても、どれだけ騒がしくても、今はジークの手のことしか考えられなくなる。
目を逸らしたまま。でも、手だけはどうしても離したくない。どこへ行くかも気にならない。ただ、ジークの隣を歩いている。
心の奥で、まだ知らなかった甘さが、ゆっくりと溶けていくのを感じていた。
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