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第13話
しばらく、ふたりで風の音に耳を傾けていた。枝葉が揺れ、熟れた果実の香りがふわりと漂う。
やがて、ジークがぽつりと口を開く。
「チルがまとめてくれた書物、あれが今すごく役に立ってる。国の……改革に向けて、本格的に動き始めてるんだ。だから少し、忙しくてな」
そう言いながら、ジークは軽く息を吐く。
目元に少しだけ疲れが滲んでいるのを、チルは見逃さなかった。
「毎朝…お顔を見ていますけど……お忙しいの、伝わってきます。ご無理、なさらないでくださいね」
そう言ってそっと視線を向けると、ジークの横顔がやわらかく緩んでいた。
「ありがとう。想像以上に、大変だ。けれど、上手くいってる手応えもある。……ただ、時間が足りない」
ジークはそっと息を吐き、椅子の背にもたれかかるように体を預けた。
「カイルさんも、そばにいらっしゃいますし…きっと、お力になってくださいます」
そう口にしたチルの声には、カイルを心から信頼する気持ちと、どこか安堵の色が混じっていた。ジークはその言葉に思わず笑い、肩の力をふっと抜いた。
「ああ、まあ…そうだな。頼れる相棒だよ」
笑みの奥に、一瞬だけ真剣な色が混じる。
少し間をおいて、ジークはゆっくりとチルの方を見た。
「チル。俺はこの国を、誰かだけが得をする国じゃなくて、誰もが学び、考えて、誇りを持って生きられる国にしたいんだ。それが、俺の願いだ」
ジークのまなざしは、まっすぐだった。チルは一瞬、目を見開き、それからゆっくりと微笑んで頷いた。
「……わたし、あの時から、ジーク様が目指している国の姿を…なんとなくですけど、感じていました」
図書室で初めて王に会った時を思い出す。チルは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「誰もが学んで、自分で考えて、胸を張って生きていける場所。誰かに与えられる幸せじゃなくて、自分で選ぶ幸せがある国…わたし、それって、とても素敵なことだと思います」
ジークはしばらく無言のまま、遠くの空を見上げていた。静かな風が枝葉を揺らし、その音がふたりのあいだをそっと満たす。
やがて、ふと目を細めて微笑み、チルの方へと視線を戻す。
「……そう言ってくれたのは、チルが初めてだよ」
その声には、思いがけない喜びと、少しの照れくささが滲んでいた。
チルは真っ直ぐにジークを見つめ、ほんのりと頬を赤らめながら言う。
「……わたしは、ジーク様の思い描く未来が、好きです」
ジークはその言葉にまた微笑み、ゆっくりとうなずいた。
未来がどんな形になるのかは、まだわからない。けれど、今この瞬間も、ジークが歩んでいる道がたしかにここにある。
国は静かに、けれど確かに前へ進んでいる。そんな気がして、チルはそっと目を細めた。
ジークがふとチルの方に目をやり、笑った。
「……頬、赤いな。陽のせいか?それとも……風かな」
「たぶん……それは…」と言いかけて、ふと口を閉じる。
少し間をおいて、頬を押さえながら、照れくさそうに目を伏せ、そして伝えた。
「……そういうことに、しておいてください」
その声にジークがふっと笑う。
「じゃあ、そういうことにしておこう」
わざとらしく頷くジークに、チルは小さく笑った。
ジークはそれ以上何も言わず、視線を果樹園に戻した。そして、ぽつりとこぼすように呟いた。
「今日は……いい日だ」
ただ、それだけ。けれどその声音には、安堵と喜びが滲んでいた。
その横顔を、チルはそっと見つめる。
静かな眼差しに宿るのは、どこか遠くを見据えるような光。
まっすぐに前を見据えて、何かを心に決めている。風に揺れる枝の向こうを見ているのは、きっと王としての未来。
凛々しい……そう思った。
いつものジークではなく、国を背負い、誰かのために決意をする人の顔だった。
チルの胸は、熱くなる。その横顔が、ただただ眩しくて、誇らしかった。
「こうして静かな場所で、風に当たりながら、君が隣にいる。それだけで……」
言葉の続きはなかったけれど、チルには十分だった。伝えられた想いが、胸の奥でふわりと広がっていく。
「……はい」
小さな声で、けれど確かに届くように、チルは頷いた。
きっと、今のこの時間は……明日からまた王として歩み出すために必要な、心の栄養みたいなものなのだろう。
静かで、穏やかで、あたたかいひととき。
言葉はなくても、不思議と気持ちは伝わってくる。
チルはそっと微笑み、果実と風の匂いが混ざる空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
「……チル。お願いがある」
「お願い……ですか?」
「うん。……君の色を、また教えてくれないか?」
チルが目を見開く。その視線に、ジークはいたずらっぽく片眉を上げる。
「忘れないようにさ。夜、目を閉じても、君の色が浮かぶように」
「ジーク様……でも…ここは外ですし…」
戸惑いが混じる声に、ジークは少しだけ身を乗り出して囁くように言った。
「構わないよ。誰にも君の色は見えない。俺だけが知っていればいい」
「……そ、そういうのを言われると……その……返事に困ります……っ」
伏し目がちに視線を落とし、チルは小さく声を震わせた。頬にはじんわりと朱が差していて、風にさらわれそうなほど頼りない囁きだった。
その横顔に、ジークはゆっくりと手を伸ばす。指先がそっと頬に触れると、チルの肩がかすかに震える。
「困ってくれたら、今日来た意味がある」
耳元に落ちるように囁かれたその言葉に、胸の奥が、きゅうっと音を立てる。
「…こ、困ってます…ちゃんと…困ります」
チルは唇を噛みしめるように、声を絞り出した。うつむいたままの睫毛が震えていた。
「ははは、そんなチルを見ると俺も困ってしまうんだがな」
「……っ、え?…ぅ…っ…」
驚いて顔を上げかけたチルに、ジークは笑みを崩さぬまま、そっと手を伸ばす。優しく、指先で頬を撫でる。
「今日も……色が見えるな、チル」
その声は低く、どこか名残惜しげで、甘やかに揺れていた。
甘い風が、ふたりの間を静かになぞっていく。
チルは、そっと視線を上げてジークを見つめる。
「……ジーク様、色……ちゃんと、見えますか?」
そう問いかける声は、小さく震えていたけれど、どこかまっすぐに自分の耳にも届いた。胸の奥をすっと突くような気がする。
ジークはほんの少し目を細めてから、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。君を見ていると、どんな色も霞むくらいには……はっきりと、見えるよ」
そう言って、チルの髪をひとすじ、指先でそっとすくう。
その指先に宿るやさしさは、ふたりの間にまだ言葉にならない約束をそっと結んだようだった。
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