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第14話
いつものように、朝食を終えたジークに優しく問いかけられる。
「今日も……色を見せてくれるか?」
決まり文句のように交わされるその言葉。
けれど、それを聞くたび、チルの胸の奥にはじんわりと熱が灯る。
日に日に頬を撫でる手つきは長く、そして柔らかくなっていった。このふたりだけの空間が、どこまでも甘く、静かに満ちていく。
「はい……ジーク様…」
ソファに座るジークの隣に座ると、そっと差し出されたジークの手が、チルの頬に触れる。くすぐったくて、でも嫌じゃなくて、ただただ、胸がいっぱいになる。
あたたかな指先のぬくもりが、じんわりと肌に広がっていく。
それだけで、心までとろけそうだった。
嬉しくて、信じられなくて、夢のなかにいるようだ。胸の奥で息を吸うたびに、ふわふわと浮かび上がってしまいそうだった。
色は……本当に、見えているのだろうか。
そう尋ねようとした唇は、胸いっぱいの想いに押されて、言葉を結べずにいた。
そんなときだった。
「チル……あのな。明日から、隣国に行かなくてはならなくなった」
「……えっ?」
甘く溶けていた心が、唐突なジークの言葉ひとつで、ぱちんと冷たい現実に弾かれる。チルは、思わず息を呑んだ。
「どうしても片付けないといけない問題がある。隣国に行って、もう一度条約を結び直す必要があるんだ」
少し困ったように眉を下げてジークは言った。続けて、明日の朝には出発すると。
「だから、今夜…少しだけ時間をくれないか?遅くならないうちに帰ってくる」
時間のないジークと今夜の約束をし「わかりました」と頷いたものの、図書室での仕事はまるで手につかなかった。
胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
気づけば同じページを何度もめくっていて、日中の記憶が曖昧だった。
夜になってもその気持ちは消えなかった。
夕食もあまり喉を通らず、ただ、ひたすらにジークのことを考えていた。
隣国に行くと言っていた。
政治のことなんて、自分には難しすぎる。
それでも、なぜだか嫌な予感だけが消えなかった。
果樹園で…あのあずまやで過ごした時間を思い出す。優しい風。静かな木漏れ日。そして隣にいたジークの表情。
あのときもきっと、ジークは大変だったのだ。無理に、笑っていたのかもしれない。
どんなことが起こるのか。
ジークは何に悩んでいるのか。
自分にはきっと知ることも、手を貸すこともできない。
それでも……
少しでも、心を支えたい。ジークの力になりたい。そんなふうに思ったのは、チルにとって初めてのことだった。
トントン__
控えめなノック音が聞こえた。
ドキンと心臓が跳ねる。チルは急いでドアのほうへ向かい開けた。
「こんばんは」
そこには、いつものジークの笑顔があった。その顔を見て、チルは少しだけホッとし、笑顔を返した。
「ジーク様、お疲れでしょう。夕食は……召し上がりましたか?」
「ああ、忘れてた。チルに会うのに必死で、まだだったな」
「では…スープいかがですか? ジーク様の好きなスパイシーなスープです。パンもあります。あっ、えっと……たぶん…お好みだと思うのですが…」
自信なく声が小さくなってしまう。本当は好みじゃなかったらどうしよう、という不安が言葉を曇らせた。
「おお、ありがとう。…ん? 好みと思う?」
チルの言い方が気になったのか、ジークが顔を覗き込むようにして聞いてきたので、つい、白状してしまった。
カイルや王宮の厨房たちが、ジークの偏食に少し困っていることを。
「……あいつ、余計なことを。でもな、チル。俺は本当に君の料理が好きなんだ。偏食は…本当かもしれないけど、君のご飯は、どれもうまいって思ってる」
チルがキッチンを行き来するたび、ジークはついてまわる。その姿がなんだか愛しくて、クスリと笑ってしまった。
「ありがとうございます。でも、苦手なものがあれば、教えていただけたらと……思いまして」
チルが控えめにそう告げると、ジークは笑い、ゆっくりとチルに歩み寄った。
「チルにそんなふうに言われたら……逆に、嫌いなものも好きになれそうだ」
「い、いえ……でしたら、次からはなるべく避けますので……」
「はは、ありがとう。…お、うまそうだな」
湯気を立てたスープを出すと、ジークは一口すするたびに、まるで何かを惜しむように目を細めた。静かな夜にほんの少しだけ、あたたかな音が響いた。
たわいもない話を交わしながらの食事。けれど、それも終わると急に沈黙が訪れた。
心臓の音だけが、部屋に響いているような気がした。
「……ジーク様。どれくらいの期間、行かれるのでしょうか」
「一ヵ月かな。もしかしたら、もう少しかかるかもしれない」
一ヵ月__
それは、長いのか、短いのか。
けれどチルにとってはとても長く感じる。
「あの…政治的なことは、私にはわかりません。でも、もし何かお力になれるなら私……調べます。必要なことがあれば、どうかお申しつけください」
ジークが必要とするなら、何だってする。
そう心から思った。
「チル、ありがとう。大丈夫、戦争になるような話じゃないよ。昔からある条約を新しく作り直すための話し合いなんだ。そのためには、俺が出向く必要がある」
「……そう、ですか」
「こっちにおいで」
ジークが手招きすると、チルは言われるままにソファへ向かい、その隣にちょこんと腰かけた。
すると…
「わっ…!」
腕を引かれ、そのまま膝の上に乗せられてしまう。大きな手が、チルの頬を撫で始めた。
「ジ、ジーク様っ! 重いですから……それに、こ、これは無礼になります……!」
じたばたと抗議するチルを、ジークは楽しそうに笑いながら抱きしめる。
「はは、一ヵ月も会えないんだぞ? 少しくらい、近くで君の顔を見たいだろ」
「……っ」
大きな腕の中で、チルはすっぽりと包まれ、身動きが出来なくなる。頬をなでる手は一段と優しくて、心までとろけそうだった。
本当は、もう少しだけ抗おうと思っていた。なのに、肩に落ちたジークの手の温もりに、胸の奥がじんわりと緩んでいく。
明日からは離れてしまう。だからきっと、この腕に抱かれることを……今はもう、拒めないと、気づいていた。
「……ジーク様。一ヵ月って、長いのでしょうか」
ぽつりとチルが呟いた。
ここには、誰もいない。聞こえるのは心音と、ジークの穏やかな呼吸だけ。
王に向けた問いではなかった。チルが、ジークという一人の人に向けてこぼした、ほんの小さな言葉だ。
「……長いだろうな」
ため息混じりの声だ。手は頬から背中へ回り、ぎゅっと強く引き寄せられる。
チルの頬は自然と、ジークの胸に寄り添っていた。その胸の内側で、トクントクンと規則正しく刻まれる心音が、耳の奥に響いた。
「朝も…お昼も…ごはんはちゃんと食べてくださいね……」
「俺、偏食だからなぁ……ま、努力するよ。
じゃあ、チルは果実酒を飲むなよ?」
「飲みません!もう酔ったりなんかしませんから!」
あの日を思い出し、恥ずかしく、焦るチルの言葉に、ジークは笑った。
「はは、俺の前ならいいけどさ。……他の誰かの前ではダメだぞ?」
「……わかりました。約束します」
くすくすと笑い合うふたり。
その笑いの余韻の中で、ジークの声が、ほんの少しかすれて聞こえた。
「それと…どこにも行かないでくれ。ここで、この部屋で…俺を待っていてほしい」
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
チルは無意識に、ジークのシャツの胸元をきゅっと握った。
「……待ってます。ジーク様が帰ってくるのを、ここで待ってます。お約束します」
顔をあげて、まっすぐにその瞳を見つめながら言った。ジークはふっと笑って、チルの鼻先を、指先でちょんと触れた。
「ありがとう……必ず、君のところに戻る。何があっても、だ」
それは誓いのように、揺るぎなく静かに放たれた言葉だった。
チルの胸の奥に、じんわりと灯がともる。
この人は、戻ってくる。だから自分は、ここで待つのだ。
そっと目を閉じながら、チルは静かに心の中で誓った。
___待っています。
ずっと、ここで、ジーク様を。
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