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第15話

ジークは側近のカイルと共に隣国へと旅立った。チルは、その後ろ姿を見送ったあと、ひとりになると急に胸の奥がしんと静かになるのを感じた。 寂しがるなんて筋違いだ。ジークは遊びに行ったわけではなく、国王として国の未来のために旅立ったのだから。 今、できることをしよう… そう自分に言い聞かせ、チルは図書室での仕事に集中した。 チルは昼間こそ本の修復に没頭し、夜になると王族の医療記録や宮廷医師の覚え書き、さらには古い民間伝承まで手当たりしだいに読み漁った。 色覚障害に触れる章句を見つけるたびに目を凝らしたが、失われた色が戻ったという記述は、一行も見つからない。 ただ、こんな言葉だけが残されていた。 『誰よりも深く色を知ろうとする者は、やがて色を授ける者に辿り着く』 意味は曖昧だ。まして、色が戻ると明記されているわけでもない。それでも胸のどこかが、小さく囁きかけてくる。 耳の奥には、あの低く穏やかな声が何度も蘇る。君の頬、真っ赤だと… 見えていないはずなのに、見えている。 書物が沈黙を貫くたび、答えのない迷路に取り残されたようで、チルはそっと胸もとを押さえた。そんな夜を、繰り返していた。 今日も朝から夢中で本の修復をしているうち、ふと時計を見ると針は正午に近づいていた。そのとき… カタン__ 静かな音とともに図書室の扉が開き、小柄な少年がひょいと顔をのぞかせる。 「チル! 今日も持ってきたよ」 「マイロ、ありがとう。お昼にする?」 ジークが旅立ってからというもの、マイロは毎日きっかり同じ時刻に姿を現す。まるで以前のカイルのように。 初めて会った日、彼は小さな包みを差し出してこう言った。 「これ、陛下からだそうです」 包みをそっと解くと、甘い香りをまとった焼き菓子が現れた。 「えっ……これ、ジーク様が…?」 旅立ったジークからだとマイロは言う。 「そう。カイル経由で、俺に託されたんだ。じゃ、渡したからね」 手をひらひら振って帰ろうとした背中を、チルは思わず呼び止めた。 「あの……一緒に食べませんか?」 それがきっかけで、昼の図書室はマイロとチルの定位置になった。今ではお昼ご飯も一緒に食べる仲になっている。 彼はチルよりひとつ年上らしく、よく笑い、よくしゃべる。名前で呼び合う仲になるのに時間はかからなかった。 おしゃべりなマイロがいるだけで、張りついていた寂しさがふっと溶ける。見ず知らずの人を呼び止めることなんてしたことがなかったが、マイロに話しかけてよかったとチルは思った。 「そのお菓子さ、陛下が『チルに似てる』って選んだんだよ。焼き菓子だよ?どこが似てるんだって……あ、これ言っちゃまずかった? ま、いいか!そのうちわかることだし」 打ち明けたあとでマイロは「あーあ、しゃべっちゃったよ!」と髪をくしゃりとかき上げて笑った。 チルが寂しくないようにと、ジークが毎日甘い菓子を差し入れをするよう、マイロに頼んだらしい。 「ありがとう、マイロ。……そっか、ジーク様…」 胸の奥がじんわり熱くなる。蜂蜜がいっぱいの甘い菓子よりも甘い想いが、そっと広がった。 「うわ、これ本当うまっ!さすが陛下、お目が高い。ってかさ、あの人って色が見えないってマジ?そうは見えないけどね」 チルは、ほんの少し驚いたようにマイロを見て、そして答えた。 「……はい。ジーク様は、色は見えないようです。でも人の声の温度や、紙の手触り、インクの濃さ…色を失って初めて、気づけたものもあるとおっしゃってて」 「へぇ…やっぱすげーな、あの人。民衆からの人気はガチだからね。あのカイルですら忠実についてるし、新しい王があの人で良かったよ、マジで」 マイロは、色の話題を深刻にもせず、軽やかに流していた。それが、チルには不思議と心地よかった。特別扱いでもなく、憐れみでもない、ただジークという人物をまっすぐに見ている。 だからこそ、ジークはきっと、こういう人たちに自然と囲まれるのだろう。目に見えない色さえも包み込んでしまう、大きな器で。 「あっ、カイルさんっていえば…マイロとカイルさんって仲がいいの?」 「うん。昔からの付き合いだからね」 どうやら、マイロとカイルは長い付き合いのようだ。マイロは「師弟みたいなもんかな」と笑ったあと、マイロはふっと表情をやわらげた。 「でもさ、カイルがあれだけ忠実についてるって、やっぱり陛下はすごいと思う。あの人、正義感強いけど、ちょっとやそっとじゃ動かないのに」 「……カイルさんが?」 「うん。命張る価値があるって思ってるんじゃない?陛下のためなら、喜んで盾になる感じだよ、あれは。ま、ちょっと面倒くさいけど」 冗談めかしながらも、その口ぶりはどこか真剣だった。 「……ジーク様は、すごい方ですよね」 チルがぽつりとそう呟くと、マイロは目を細めてうなずいた。 「だよな。だから、この国もきっと良い方向に進むと思う。ちゃんと考えて動いてるし、迷いがない。……それに、あの人って、人を見る目があるよね」 その言葉に、チルは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。誇らしさと、ほんのわずかな照れくささが、そっと心を撫でていくようだった。 そして、焼き菓子をひと口食べるたびに、マイロはそんなふうにポンポンと王を褒める言葉を投げる。チルは、それを聞きながら誇らしい気持ちになった。 ジークが目指す未来。 それは、教育と文化を大切にし、身分にとらわれずすべての民が平等に生きられる国。貴族だけが豊かで、庶民が取り残される世界ではなく、誰もが希望を持てる場所へと変える。それが少しずつ浸透している気がする。 「ところで、マイロのお仕事って、何?」 「ん?あー…えっと、なんでも屋ってとこかな!」 マイロは、少しだけ間を置いてそう答えた。 「なんでも屋さんかぁ…」 チルは小さく首をかしげた。王宮にそんな職業があるとは知らなかったが、マイロの笑顔につられて、思わずふっと笑みがこぼれる。 「うん。なんでもやるよ。王宮では『雑務支援係』って呼ばれてるけど、そういうの難しく言わなくていいと思ってる。俺は、なんでも屋でいいんだ」 人手が足りない部署に即応する臨時係。そういう名目で、王宮内を転々としているらしい。 工芸職人の補助や料理班の手伝い、使者の補佐など、日によって役目は変わるという。器用なマイロは、どこにいてもすぐに役立つため、自然と「便利な人」として重宝されているようだ。 「カイルさんとは、仕事でも一緒になることある?」 「うん、あるよ。今はあの人の指示で動いてる。でも、それだけじゃないかな。昔からの付き合いで、まあ、俺のことを一番よく知ってる奴って感じ。厳しいけどね」 厳しいと言いつつも、マイロはどこか照れくさそうに笑う。その声には信頼がにじんでいた。 「へえ……意外。カイルさんって、いつも優しそうな印象だったけど」 「うえっ!?うそ、マジ? そんな感じに見える?どんだけ猫かぶってんだよ、あの人」 「そうかな…でもね、カイルさん、ジーク様からの差し入れを毎日届けてくれてた。言葉少なだったけど、見守ってくれてるような…そんな温かさがある」 「ふーん……そっか…。あっ!そういえばさ、陛下の部屋、今すごいことになってるよ。チル宛のお菓子の山!」 「え……? ジーク様の部屋に?」 「あっ、あれ~? これも言っちゃいけないことだったかな。……ま、いっか。チルが受け取るんだし!ほら、毎日ひとつずつ持っていってって言われてるじゃん。お菓子選びもね、めっちゃ厳しくてさ。『色が豊富で綺麗なのがいい』『甘くてふわっとしてるやつ』って、かなり真剣だったよ」 「なんだか……嬉しいです」 胸の奥に、きゅっと甘いものが広がる。ジークと過ごした時間は、確かに存在している。その余韻が、今もチルの中で優しく脈打っていた。 「おっと…こんな時間。さあチル! 午後も頑張ろうぜ!」 「うん、ありがとう。マイロ」 あっという間にお昼は終わる。 チルはふわっと笑みを浮かべ、気持ちを切り替えるように立ち上がった。 修復中の書物へと向き直り、ページをそっと開いた。ジークが戻ってくるその日まで、できることをひとつずつ。

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