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第16話

夜、眠りにつこうとしたとき、不意に思い出す。 ジークが言っていた、「静かすぎる夜は、音のない不安が一番強く響く」 それは、まさに今のような夜のことだろうか。 寝台に横たわりながら、チルは天井をぼんやりと見つめた。 窓の外から風の音が聞こえる。厚いカーテン越しの夜空は見えないのに、不意にジークの姿が浮かんでくる。 今どこにいるのだろう。 ちゃんと眠れているだろうか。 食事は取れているだろうか。 そんなことばかりが、頭を巡る。 あの体温。囁き声。真っすぐな瞳。 ジークと過ごした時間は、もうただの記憶ではなかった。 ……会いたい。 口に出すには恥ずかしいけれど、心の奥ではずっと願っていた。ジークの隣にいた時間が、こんなにも深く自分の中に根づいているとは。 またあの手で触れたら、名前を呼ばれたら、もう少しだけ心が安らぐ気がする。そう想うだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。 ……ジーク様。 そっと心のなかで名前を呼びながら、チルは毛布をぎゅっと引き寄せる。それだけで、ほんの少しだけぬくもりが戻ってきた気がした。 枕元には、マイロが届けてくれた菓子の包み。ふわりと香る甘さに、自然と頬がゆるむ。 ジークが選んでくれた味が、今日もそばにある。それだけで、また明日も頑張れると思えた。 翌朝、まだ陽が高くなる前… チルは静かに目を覚ました。 夢の記憶は残っていないのに、胸の奥がほんのりとあたたかい。枕元に残る甘い香りに、そっと微笑む。 ___けれど、その静けさの裏で、確かに何かが動き始めていた。 まるで、湖面に落ちた小さな石が、ゆっくりと波紋を広げていくように。 穏やかな日々__それは、思っていたよりも脆く、儚いものだったのかもしれない。 「……おかしいな」 チルは、手にしていた本からそっと視線を上げた。 図書室に来るはずのマイロが、今日は一向に姿を見せない。時間に几帳面で、朝の挨拶も欠かさない彼が、何の連絡もなく遅れることなど、これまで一度たりともなかった。 どうしたんだろうか… ページの文字を目で追っていても、まったく頭に入ってこない。指先は自然と、ページの端を何度も行き来し、落ち着かない。 空気が違う__そんな感覚が、図書室の静けさの中にじわじわと滲んでくる。 王宮の朝はいつも同じように始まるはずなのに、なにかが違う……チルの胸に、ひやりとした違和感が広がる。 そのとき、外から聞こえてきたのは、庭の石畳を急ぐ騎士たちの足音。重く鋭く、焦りを帯びた音は、ただの巡回ではないとすぐに悟らせた。 何かが、起きている。 その瞬間、図書室の扉が勢いよく開いた。 肩で息をしながら、マイロが駆け込んでくる。 「チル……今朝から、王宮がざわついてる」 「ざわついてる……?」 「うん、まだ詳細は分からない。でも、城門前に正体不明の一団が現れたらしい。しかも、その中に……陛下の、かつての縁談相手に関わる者がいるって……」 「……っ」 チルは思わず息をのんだ。 すとんと胸の奥に落ちる、重たい何か。 書物の上に添えた指先がかすかに震える。 王宮がざわめくのは、初めてのことではない。けれど、今日のそれは、空気が違う。湿った風が、胸の奥を冷たく撫でていく。 ひとりきりの朝。 ジークがいない日常。 穏やかだったはずの時間のなかで、チルは初めて、自分の鼓動が波打つのを自覚していた。 何かが動き出している。 それだけは、確かだった。 ◇◇◇ 毎朝、目が覚めるたびに「今日こそ」と思ってしまう自分がいる。それに気づいたのは……もう、何度目かの朝を迎えたころだった。 ジークを待ちながら過ごす日々は、すでに一ヵ月を超えようとしている。けれど、彼はまだ戻ってこない。 マイロと共に過ごすことで、何とか心の隙間を埋めてきたつもりだった。しかし、胸の奥にかすかに灯っていた胸騒ぎは、日を追うごとに膨れ上がり、今では確かな「不安」という形になっていた。 王宮全体が、ざわついている…… そうマイロから言われた日から、日常も変わり始めていた。 以前のような明るい活気は影を潜め、廊下を歩く人々の足取りも、どこか沈みがちだった。 すれ違うたびに交わされるはずの挨拶は減り、人々は無言で目を伏せ、刺すような空気だけが静かに漂っている。 原因は、誰の目にも明らかだった。 ジークが旅立った隣国__スチーク王国から、王女メリアが「結婚準備」と称して、何の前触れもなく王宮に現れたのだ。 隣国スチーク王国は金銀や交易で潤う財の国。対する、ここリミト王国、ジークが治めるこの国は、肥沃な大地に恵まれ、作物の輸出で栄えてきた豊穣の国である。 両国は、長年互いの不足を補い合う条約で結ばれてきた。そしてもう一つ、両国を縛る、古く重たい誓約があった。 『スタークとリミトの王家に子が生まれたなら、両家は必ず婚姻で結ばれる』 そう記された条約は、今となっては誰も正確な由来すら覚えていないほど古いものだった。 だが、確かに存在している。そのたった一行が、今まさにジーク王を縛ろうとしていた。 マイロから聞いた話では、ジークが隣国へ赴いたのも、この時代遅れの誓約を破棄するためだという。 何百年も前の取り決め。時代も、国の形も変わった今なお、人を縛り、未来を奪おうとしている。 胸の奥に、かすかな痛みが走った。ジークは変えようとしている。民も、国も、そして、しきたりに囚われない未来さえも。 だがその最中に、王女メリアは「結婚準備」を名目に、勝手に王宮に乗り込んできた。随行するのは、ジークの改革を快く思わない古参貴族の反対派たち。 王宮の空気がきしみ始めたのも、無理はなかった。 昼どき、図書室の扉が静かに開く。 マイロが差し入れの包みと、小さな封筒を差し出した。 「チル……今日はこれも。陛下からの手紙だって」 胸が跳ねる。 封を切ると、見慣れた筆跡が目に飛び込んでくる。 『チル、国に戻るのが少し遅れそうだ。だけど変わらず待っていて欲しい。帰ったら、あのスープが飲みたい。作ってくれるだろうか。それと、果実酒を土産に持って帰ろうと思っている。一緒に飲もう』 二人にしか通じない、ささやかな暗号のような文が織り交ぜられていた。確かに、ジークの手によるものだ。 封筒を胸に抱えた瞬間、温かいものがふわりと広がる。けれど、王宮に満ちるざわめきと冷たい空気に触れた途端、胸の温もりはあっという間にしぼんでしまう。 ……やっぱり、帰国は遅れているんだ。 手紙を読み返しながら、チルはそっと目を伏せた。

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