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第17話
午後、彩光の差す図書室に、上品な足音が滑り込む。薄紫のドレスを揺らし王女メリアが足を踏み入れた。
「陛下がお戻りになる前に、この王宮の姿を拝見したくて…」
微笑みは絹のように柔らかい。けれどその瞳は、冷たい刃物で皮膚を撫でるようだった。
チルは司書として一礼し、正面から迎えた。
「あなたのことは知ってるのよ。庶民の身で、王を独占するほど親しいとか。不釣り合いね」
胸を突くような言葉が、香水の残り香とともにふわりと舞う。
「王は色を失っているでしょ…その王に色を戻せるのは、私だけよ」
メリアはわざとらしくため息をつくと、持参していた絹包みをそっとほどいた。その中から、ひときわ大ぶりな古書を両手で持ち上げる。
革装の背表紙を指先で愛おしげに撫でながら、宝石でも披露するかのようにチルの前へ差し出した。
「この本、もうご存じかしら?」
艶やかな爪がページの縁をゆっくりとなぞる。その動きに合わせて、口元に浮かぶ微笑みはどこまでも演技じみていた。
古書には、
『色を失った王は、真なる伴侶を得た時、新たな富と繁栄をもたらす』
そう記されていた。
チルがどれだけ探しても見つからなかったその伝承の原典だ。それは、ジークの「色」を巡る数少ない記録であり、チルにとっても特別な意味を持っていた。
王の色彩の秘密を初めて知った日から、書庫の片隅まで探し回ったが、どこにもなかったその一冊は、いつの間にか隣国へ渡っていたらしい。
喉の奥がひゅっと細くなり、指先が小刻みに震えた。指先まで冷たくなるような感覚が押し寄せた。
「この書こそが証。真なる伴侶にふさわしいのは、この私だわ」
メアリはうっとりと微笑みながら、まるで舞台の女王のように一歩下がり、スカートの裾を広げて優雅に一礼した。
その仕草は完璧で、見る者すべてに「選ばれた者」と告げるかのようだった。
チルをちらりと一瞥するその目には、優越と哀れみが入り混じった冷たい光が宿っていた。
「お可哀想に、あなたには少し荷が重かったのね」
そう言い残し、メアリは音もなく踵を返して去っていった。香水の甘い残り香だけが、その場にいつまでも漂っていた。
___その日を境に、メリア王女は図書室をたびたび訪れるようになった。
彼女がチルに向ける刃は、以前よりも鋭く、攻撃的になり、その嫌がらせは目に余るほどに増していった。
王女は貴族たちを引き連れて現れ、そのたびにチルは司書としての役割を奪われた。
図書室には、王国の機密情報、貴族の家系図や古い法律書など、重要な資料が数多く保管されている。
本来であれば、チルもこれらに関わり、依頼に応じて調査や資料提供を行うはずだった。
以前と同じように「調べて欲しい」「資料を貸して欲しい」と頼まれ、忙しく館内を動き回っていると、突然、「庶民出身のお前がそのような仕事をするのは不適切だ」と理不尽な言いがかりを受け、依頼を勝手に取り下げることが続いた。
それならばと、チルはこれまで通り、傷んだ古文書の修復作業を続けようとした。
しかし、手に取った書物を見たメリア王女は、嘲るように笑いながら言い放った。
「とうていあなたにはできないことだわ」
その声音には慈悲のかけらもなく、勝者の余裕と冷たい侮蔑が混ざっていた。
そして、チルが丁寧に修復を進めていた古文書へと手を伸ばす。
「こんな繊細な作業、あなたのような人に扱えるわけないでしょう?」
わざとらしく細い指先でページの端を摘み上げると、まるで不要なものでも扱うように、すっと取り上げてしまう。
「私が代わりに保管してあげるわ。……壊される前にね」
華やかな笑みを浮かべたまま、メアリはくるりと踵を返す。その足取りは自信に満ち、あまりにも優雅だった。残されたチルの手のひらには、修復しかけだった文書の重みの余韻だけがぽつりと残った。
__度重なる能力の否定。
ついには、図書室への立ち入りすら許されなくなった。
あの静けさも、本の香りも、指先に馴染んだ修復の感触も、チルはすべて奪われてしまった。
やむなく、チルはジークの部屋の隣にある一室で静かに時間を過ごすことになった。
王女メリアは、まだチルが王宮に滞在していることには気づいていない。国王陛下の私的空間までは、さすがに踏み入れることができないためだ。
しかし、それもいつまで持つかわからない。時間の問題かもしれない。王女の影は、日に日にこの場所にまで迫っている気がする。
もしメリア王女に存在を知られれば、またすぐに追い出されることになるだろう。
それでも、チルは心に誓っていた。
ここで待つ、と。
ジークと交わした、たったひとつの約束。
『……どこにも行かないでくれ。ここで、この部屋で……俺を待っていてほしい』
耳の奥に、あのかすれた声が蘇る。低く、優しく、胸に深く染み込むような声。
不安に押しつぶされそうな夜も、孤独に胸が軋む日も、チルはただその言葉を抱きしめた。
たったひとつの約束が、今のチルを支えている。
必ず、ここで待っています。
心の奥でそっと、そう繰り返す。
チルは胸元にそっと手を添えた。そこに宿る、約束の声を逃がさぬように。
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